戦国武将に学ぶ~真田三代生き残りの戦略~

真田信繁

 平成28年度我孫子稲門会総会の最大の呼び物は、静岡大学名誉教授文学博士、小和田哲男先生(1972年早稲田大学文学研究科博士課程修了)による上記講演であった。先生は、多くの著作とNHK大河ドラマの時代考証、歴史番組への出演で有名な方である。
 ここで、先生の講演を要約して、執筆させていただいた。なお、NHK大河ドラマの時代考証に関しても貴重なお話があったが、省略させていただいた。

真田三代とは

 真田三代とは真田幸隆、昌幸、信繁を云うが、「生き残りの戦略」というからには、徳川の世になっても大名として真田家を残した信幸(後に信之に改名)の存在を忘れてはならない。
「兄(信幸)は家を残し、弟(信繁)は名を残した」と云われる所以である。
 戦国武将、真田と云えば、真田幸村ということになっているがNHK大河ドラマ「真田丸」では真田左衛門佐信繁という名で出てくる。史実として真田信繁が「幸村」と名乗ったことは無い。「幸村」という名が出てくるのは約50年後に出た「難波戦記」という軍記本からである。確かに真田氏の系図を見ると名前に「幸」という字が通字(つうじ)あるいは通り名になっている。それと本名を出すのがはばかられた時代で「幸村」となったらしい。さらに江戸後期になると「真田三代記」が出てきて、真田三代というと真田昌幸、幸村、それに幸村の子の大助(幸昌)になる。明治になると立川文庫(たつかわぶんこ)から出た時代小説に真田十勇士が登場するようになって、我々が小さい頃には猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道などの忍者、豪傑の人気が高くなる。大助は若殿としてぴったりなのかもしれない。

真田家が乱世をいかに生き残ってきたか

 真田氏は信濃と上野の境界に位置する四阿山(あずまやさん:日本100名山)附近を領していた豪族で、四阿山は修験者すなわち山伏の道場のようなところであった。彼らは各地を自由に行き来できて、互いの情報ネットワークを持っていて、情報を取るだけでなく、流すこともできたのである。これが後の忍びの者と言われるようになった。この情報網と、信濃、越後、上野の国境という地勢を生かして、真田家は生き残ってきた。真田十勇士はまんざら作り話でもない。
 真田家の本拠地は松尾城あたりで現在の上田市真田町になるが、信州と上州の国境で上州街道(国道144号線)を抑えていた。真田氏が大きくなっていったのは、幸隆(幸綱ともいう)の存在が大きかった。一時、武田信虎と戦ったこともあるが、結果として武田信玄の家臣となっている。その後、村上義清が持っていた砥石城を、調略をもって攻め落としたこと、さらに川中島の合戦でも大いに功を上げたことで、武田家臣の中でも上位の地位まで上り詰めている。

真田昌幸の生き方

 昌幸には二人の兄がいて、幸隆の後は長男の信綱が継いでいる。この時期、昌幸は「武藤喜兵衛」と名のっていた。
 信玄が病死し、武田勝頼が家督を継いだのち、武田軍と織田信長・徳川家康連合軍との戦い、世にいう「長篠の戦い」正確には「長篠設楽ヶ原の戦い」で武田が敗れる。この戦で兄二人が討ち死にし、真田家は真田昌幸が継ぐことになる。
 武田勝頼は長篠の戦い以後、北条氏をたよるが、上杉謙信没後の内乱、「御舘の乱」で景虎、景勝の和平に成功する。その後、北条との対立、上杉景勝からの庇護があり韮崎に新府城を築城する。しかし、ここも織田徳川軍に攻められ、昌幸は自分が治めている岩櫃城へ向かえようとするが、勝頼は小山田信繁の居城、甲斐の岩殿城へ逃れることを決意する。しかしこの途上、織田軍に寝返った信繁に行く手を阻まれ、勝頼は討ち死にし武田家は滅亡した。
 真田昌幸が岩櫃城に居を構えている頃の信濃は完全な草刈り場になっていた。北に上杉、南に徳川、東に北条、他の隙間には織田の家臣団が領していた。
昌幸は信長に臣属し、滝川一益の配下になる。ところがその2ヵ月後、本能寺の変が起こり、同じころに滝川一益が北条氏に敗れると、昌幸は北条氏に就くことになる。結局、滝川一益は織田家の後継者選びとなる「清須会議」にも出席できなかった。
この頃の主従関係の不安定さはあきれるばかりだが、それが当たり前であった。昌幸は北条氏とも縁を切り、徳川に就いていた弟の信昌(信尹)の斡旋で徳川方に属することになる。
 その前に昌幸が領有していた沼田城が北条氏に攻められるが、昌幸はこれを撃退している。しかし、その直後、徳川・北条の和睦が成り、徳川北条連合対上杉の対立がおこる。
 ここで、昌幸は徳川家康に、上杉を攻撃する拠点として上田に城を築くことを願い出、徳川のお金と兵力を使い、上田城の構築を行っている。上田城はこの後、難攻不落の城となっている。この後のことを考えると、極めて政略的な城づくりと云える。徳川の金と労力で堅固な城を築き、後にこの城を使い徳川と二度の戦に勝利することになるのだから。
 翌々年、すでに北条と結んで上州を北条領とした家康は昌幸に沼田と岩櫃を北条に渡せと申しわたす。これに対し昌幸は、沼田と岩櫃はもともと真田のもので、北条に渡すわけにはいかないと断っている。真田領は上杉と北条の間にあって、どちらも咽から手が出るほど欲しい要所である。北条と手を結んだ徳川を離れ、昌幸は上杉景勝と同盟し、次男の信繁を人質として送っている。
 それに怒った家康は昌幸の居城、上田城に7千の兵を送っている。真田方は兵2千、攻者が籠城している兵の3倍の兵を送れば勝てるという説があるが、この上田合戦ではそれを超えている兵でも落とせなかった。これが第一次上田合戦と称される。

真田信繁、信幸の世代

 真田信繁は上杉の人質に出されたときは、すでに19歳になっていた。ここで、上杉軍法を学ぶことになるが、父からは武田軍法、この後に豊臣軍法を学んでいる。これが第二次上田合戦の勝利につながっている。
 豊臣秀吉が天下をとると、真田昌幸と徳川家康の対立は秀吉の斡旋で、和解する。信繁も豊臣への人質になってはいるが、秀吉からは大いに可愛がられ、直々の馬廻衆となり、従五位下左衛門佐に任じられ、豊臣の性まで下賜されている。昌幸も豊臣家配下の大名として取り立てられる。
一方、信幸は徳川家に仕え、家康にその才を認められ、従五位下伊豆守に叙任されている。
 この頃の女性の活躍は目を見張るものがある。後に真田家が東軍と西軍に分かれ、真田家断絶を免れたのも女性のおかげである。長男の信幸は徳川四天王の一人、本田平八郎忠勝の娘で、家康の養女として嫁いだ小松姫を正室としている。一方、信繁は石田三成の親友、大谷吉継の娘竹林院を正室としている。正室の他にも多くの側室がいて、子孫を残している。

関ヶ原の戦い

 家康は豊臣秀頼の命で、上洛に応じなかった上杉景勝討伐のため、軍資金2万両と兵糧2万石を受け取り、江戸に帰国。徳川方の兵を集めて、会津に向かう。下野小山に来たころ、石田三成挙兵の報を聞き、そこで上杉討伐軍に加わった諸大名を集め、協議する。1600年7月15日の「小山評定」である。
上杉討伐から反転し、西に向かうことになる。豊臣恩顧の大名たちも福島正則をはじめ、三成には従わないものが数多くいて、ほとんどが、石田三成との戦いに向かった。
 昌幸、信幸、信繁は徳川との戦を決意した石田三成からの書状を下野の国、犬伏(栃木県佐野市)で受け取っている。昌幸は三成とは姻戚関係もあり、第一次上田合戦の因縁もあって、西軍に、信繁は三成の親友である大谷吉継の娘を正室としているため、やはり西軍に、一方信幸は本田忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているため東軍に就くことになった。もちろん、真田家の存続を念頭に置いていたのは間違いない。
小山評定の後、昌幸と信繁は上田城に戻るため、途中、信幸の居城沼田城に寄って、孫の顔を見たいと訪ねているが、小松姫から、昌幸の思惑を見透かされ、丁重に断られている。「さすが、本田忠勝の娘」と笑って通り過ぎたという話もある。
 昌幸と信繁は上田城で、徳川秀忠率いる東軍本体3万8千の兵を2千の兵力で徹底した籠城戦を戦っている。これを第二次上田合戦という。
この合戦の中では信幸は徳川方として参加している。このとき、砥石城を守っていた信繁は、自ら兵を引き揚げ信幸の功としている。
結果として、秀忠は1600年9月15日の関ヶ原の合戦に遅参している。
 西軍が敗れたのがわかった後も、昌幸、信繁は数回の戦いをしかけてはいるが、結局、降伏、開城している。
本来なら敗軍の将として死罪になるところだが、信之と本田忠勝の懇願により、紀伊、九度山(くどやま)に流罪となっている。昌幸は九度山で死亡する。

大坂冬の陣

 時は流れ、1614年に大坂冬の陣が勃発する。豊臣方は恩顧の大名に期待できず、多くの浪人を集める策に出る。信繁は上田にいる昌幸の旧臣たちを集め大坂城に入った。
 大坂にいた淀君や大野治長らの当初からの籠城案に反対、浪人たちは打って出ることを主張したが受け入れられず、信繁は、それならばただ単に籠城するだけでなく、敵を呼び込んで反撃する策を唱え、大坂城で最弱部とされた三の丸南側に出城を築くこととなった。これが世に云う「真田丸」である。
徳川方は20万の大軍がつめかけ、豊臣方は10万の浪人が集まった。その中には、後藤又兵衛、長曾我部盛親、木村重成などの名立たる武将もいた。
 「真田丸」には5千の兵が詰め、徳川方を銃で攻撃、疲弊させていった。徳川方は、和平に持ち込もうと、2キロも飛ぶ大筒(大砲)を使い、本丸を攻撃した。それがたまたま、本丸に命中し、淀殿の側近の女が死に、恐れおののいた淀殿の方から講和を申し入れる結果となり、徳川優位の和平がなされた。
その条件は、真田丸を破壊すること、外堀の一部を埋めることであったが、勢いに勝った徳川方はすべての堀を埋めてしまう。

大坂夏の陣

 半年後、徳川勢は15万の兵を集め、大坂城を攻撃。堀をすべて埋められた大坂城は籠城戦にはすでに役立たなくなり、大坂方の浪人も多くが立ち去り7万の兵で打って出ることとなった。道明寺・誉田合戦をはじめ、各地で合戦となったが、兵力に勝る徳川方が優勢となる。
天王寺・岡山合戦で大坂方は迎撃をこころみる。その中で、敵は家康のみとして本陣に突撃した真田信繁の猛攻に徳川本陣は大混乱に陥るが、死を覚悟の戦に疲れ果てた信繁も遂には、討ち死にした。
 その後、豊臣秀頼の正室千姫による秀頼の助命嘆願に対しても、家康は許さず、豊臣家は滅びることとなった。

真田家のその後

 真田信繁の一人息子、大助(幸昌)は大坂城にもどるが、豊臣秀頼の死とともに殉死している。
真田家を引き継いで生き残ったのは、信之である。関ヶ原後、昌幸、信繁の助命嘆願の際に、真田家の通字「幸」を捨て、信之と改めている。
信之は大坂の陣には病気のため参戦していない。二人の息子が出陣している。
 信之は夏の陣後、上田藩主となるが、その後、松代に加増移封され13万石の松代藩主となる。後に、沼田真田藩3万石が独立して、松代藩は10万石になり、子孫は明治になって伯爵にもなっている。

執筆 鶴

真田家関連地図上田城全景
真田丸イメージ大坂夏の陣屏風