仁和寺

仁和寺金堂
北庭 二王門
 今回の奈良・京都の旅の最後の日になる。平野神社を出て、北野白梅町でバスを乗り換え、妙心寺北門前を通過して、御室仁和寺前で降りた。すぐ目の前に壮大で重厚ではあるが、優美さも兼ね備えている二王門がそびえ立っている。知恩院、南禅寺の三門と並んで、京都三大門の一つとされている。
 仁和寺には何度も来ているが、今回は、有名な御室桜を期待していた。残念ながら、時期が早すぎたせいか、開花している木はほんの少ししか無かった。その代わりに、枝垂れ桜が満開になっていた。枝垂れ桜を前にして、五重の塔を写してもなんとなく様にならない。やはり、低い木で花が群生して見える御室桜を前に置いたほうが良さそうだ。とは云っても、花見の時期で境内は拝観客で混んでいた。ミツバツツジの花も咲きそろっている。
 前に来たのは2008年の冬で、ブログの中にビデオ映像を掲載しているが、今回は一眼レフで撮影した静止画を載せた。混んでいる所で、三脚を立てて動画を撮るのは難しい。宸殿から見る南庭、右側に右近の橘、奥に勅使門、その向こうに二王門が見える景色や、北庭の池と石組み、その向こうに見える五重塔の風景はこの寺の代表的な景観である。白書院や宸殿、黒書院などの襖絵の優雅さは、まさに御室御所と呼ばれる門跡寺院の風格を備え、このお寺の格式の高さを象徴している。
 仁和寺は888年に宇多天皇により構築された寺院であるが、応仁の乱でほとんどが焼失してしまっている。それから160年後の寛永11年(1635年)に、徳川家光により再興され、その時期に京都御所の紫宸殿を移築して本堂とし、現在の金堂となった。金堂は国宝として認定されているが、中には阿弥陀三尊像が安置されている。 仁和寺全体は世界遺産として登録されているが、その中でも、金堂の美しさはなんとも言えない。これこそ寝殿造りの典型と云えそうだ。前回撮った、阿弥陀如来坐像と脇侍の勢至菩薩立像、観世音菩薩立像からなる阿弥陀三尊像の映像だが、今回は金堂が開いておらず、見ることができなかった。文化財が保管、陳列されている霊宝館に、国宝阿弥陀三尊像があるが、こちらのほうが、平安時代に作られたと思われる。金堂内の仏像は江戸時代の作品なのだろうか?
 仁和寺は昔から文化の中心ともなっている。境内の中にある茶室、遼廓亭は門前にあった尾形光琳の住居を移したものと云われ、清水焼を代表とする京都の陶器は京焼と呼ばれるが、御室焼(仁和寺焼)もその一つである。御室焼の窯は野々村仁清によって仁和寺門前に作られた。尾形光琳の弟、尾形乾山も門前に居を構え、仁清の教えを受けている。現在でも、仁和寺が宗家となっている御室流華道は仁和寺創建当時より仏前に供える経華のための挿花の流儀として伝えられてきたものである。徒然草や方丈記にも仁和寺の話が登場するが、多分野にわたって、仁和寺は文化的にも深く関わってきたことがわかる。
金堂 阿弥陀三尊像 仁清 色絵藤花文茶壺

京都の花見

紅しだれ 
泰平閣 蒼龍楼回廊 
清水寺 婚活?
清水の舞台 桜の競演

 25年ほど前に大阪で単身赴任をしていた頃、同じ職場の人たちから、花見に行きませんかというお誘いを受けた。東京では職場で花見なんかに行くことはまず無かった。東京でも上野公園や、靖国神社、新宿御苑など有名な場所があるが、我々には無縁だと思っていた。私は、休日に昼間から行くのであれば、京都でやりませんかという提案をした。他の皆さんは、大阪城公園や万博公園あたりを考えていたようだが、大阪には全く不案内の私には京都の方が魅力的に思えたのだ。大阪城公園は他からのお誘いもあったので、京都での花見になった。一年目は円山公園、次の年は蹴上から南禅寺、哲学の道から銀閣寺道の入り口までのコースを辿り、予約していた近くの料理屋で食事をした。
 花を見て、皆で楽しむ本来の花見の宴というのはこれが最後だったのかもしれない。東京でも花の季節は千鳥ヶ淵や新宿御苑などへ花を見に行くことはあるが、カメラで写真を撮るのが主目的になってしまう。そんなときはやはり一人で行きたくなる。女房や友だちと一緒だとゆっくり写真の構図を考えて撮影場所を決めたり、何枚もシャッターをきることができない。ましてや、薬師寺の遠望を撮るのに大池まで歩くなぞということは考えられない。
 今回の旅に出る前に、いつも散歩で行く柏のあけぼの山公園で満開の桜を見てきたが、3月11日の東日本大震災の影響で自粛ムードが強く、屋台の出店や夜桜の提灯も無く、シートを敷いて花見する人も少なかった。震災後、中国や韓国からの観光客が激減したというので、いつもは混雑して花見どころではない平安神宮や清水寺、それに地元の人達で賑わう平野神社の花を見に行くことにした。
 京都駅から平安神宮に行くには、バスを使う。京都会館美術館前で降りると、すぐ目の前に大鳥居があり、奥には応天門、さらにはその奥に大極殿が見える。この神社は1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して、幕末の騒乱で荒れ果てた京都の町を復興する事業の一つとして創建された。祭神は平安京を制定された桓武天皇と京都で最後に崩御された孝明天皇(明治天皇の父帝)である。平安京制定時の建物の約八分の五の大きさだというが、応天門や大極殿などの大きさは壮大なものである。明治以降の神社仏閣としては最大規模ではないかと思う。現在復元中の奈良、平城宮跡がどの程度になるのか将来を期待したい。
 この平安神宮の見所は二万坪ほどある敷地の半分を占める神苑である。この日本庭園は四季折々に咲く花と池、池に面して映る京都御所から移築された泰平閣、尚美館の姿の美しさなど、明治以降創建の神社と云って決して侮れない。とくに桜の花の咲くこの季節は、観光客だけではなく、京都市民の観桜の名所として親しまれている。平日とはいえ、園内はかなり混んでいた。平安神宮の表に接する岡崎公園の桜とともに、神苑内の枝垂れ桜もすべてが咲きそろい見事な景観を作り上げていた。
 次はバスで京都駅方面に戻って、清水寺に向かった。清水寺へ行くには、いくつかの道があるが、近いのは清水道バス停で降りて松原道を行くか、五条坂バス停で降りて、五条坂を登るかの二通りがある。バスが混んでいたので、皆が降りだした清水道でバスを降りた。前に和服を着た二人連れの女性が降りたので、それに着いて行った。しばらくは静かな道で、本当にこの道で良いのかと怪しんだが、五条坂とぶつかる所で三年坂(産寧坂)とも交わる。その辺からお土産屋がたくさん並び、人も混んできた。それに和服を着た女性が急に増えてきた。みんな地元の人かしらと思いながら坂を登ると、朱塗りの仁王門に着いた。ここも桜の名所である。やはり人で賑わっていた。修学旅行の生徒も多い。平安神宮と同じように、外人客も目立つ。中国や韓国ではなく、青い目の外人の方が多い。
 ここには学生時代以来、なんども来ているが、桜の花の満開時に来たのは初めてかもしれない。清水の舞台から京都の街がよく見える。地主神社の前を通って奥の院あたりで最も有名な清水の舞台の写真が撮れる。さらに奥に行く道を通るのもよいが、もとに戻って阿弥陀堂の前の石段を降りると速い。かなり高い急階段で、降りるのが怖いほどである。下まで着くと清水の舞台が高く見える。「清水の舞台から飛び降りたつもりで」という決心のほどを示す言葉があるが、本当に飛び降りた人がたくさんいたらしい。修学旅行で来ている女生徒たちが手を振っている。そばに小さな滝が落ちていて、ひしゃくで水を汲んで飲んでいる人達もいる。この滝、「音羽の滝」と呼ばれて、湧き水から落ちている水で「延命水」とか「黄金水」とも呼ばれている。「音羽山清水寺」という正式名称の由来ともなっている。創建は奈良末期、最初の征夷大将軍となった、坂上田村麻呂によるものである。国宝十一面千手観音が奉られている。平安時代になって栄え、公家をはじめ、多くの庶民からの信仰の対象となっている。帰り道は三年坂を通り、八坂の塔を見て、バスで四条河原町のホテルへ向かった。
 翌日、最初の訪問先は、平野神社である。過去に行ったことがない。京都の桜の名所と云えば、平安神宮、清水寺、醍醐寺、嵐山・・・と数多い。どこの神社やお寺に行っても枝垂れ桜は咲いている。しかし、立派な寺院や庭などで有名な場所が多く、拝観料も取られる。ゴザやシートを敷いて、お弁当を食べながら夜桜見物というような所は少ないような気がする。屋台の出店などあまり見かけない。昨日行った平安神宮で、そばを通るおばさんたちの会話を小耳にはさんだが、「あそこもええとこやけど、屋台がならんでて、あまりきれいやおまへん」と聞こえた。どこの事を云ってるのかわからなかったが、どうも平野神社ではないかと思った。バスで北野天満宮の近くの衣笠小学校前で降りて、すぐの所に平野神社がある。通りに面したたいして大きな神社ではない。入り口の所から屋台がたくさん並んでいる。しかしどの店も終う準備をしていた。中に入ると「夜のライトアップは終了しました」という看板が立っていた。そういえば、清水寺のライトアップも終わっていたなと思いながら、桜の花の写真を撮り始めた。今年は桜の時期が少し遅れていると思い、一週間ずらして来たので、まさに満開の花を見れたのだが、イベントは終わってしまったようだ。平野神社の桜はその品種の多さが有名で、3月中頃から4月の下旬まで楽しめるそうだ。今年は私が行ったこの時期が最も多くの桜が咲いている頃だと思う。ここは観光客より、地元の人達が訪れる場所のようで、団体客より家族や数人の集まりが多い。約400本の桜が咲く、地元の桜の名所と云ったほうが良さそうだ。4月10日には桜祭神幸祭(桜花祭)が行われ、正装した神官や巫女などの行列、神輿、花車も出るようである。この平野神社は観光地としてはそれほど有名ではないが、意外と歴史は古く、桓武天皇が平安京に遷都されたときに、平城京の宮中に祀られていた神社をここに遷されたとされる。当時はかなり大きな神宮であったという。京都の桜を撮影したければ、この神社の桜を省くわけにはいかないだろう。
 なんとなく、これまでの奈良、京都とは趣の違う、身近な雰囲気のする平野神社に別れて、バスを乗り継ぎ、仁和寺へ向かった。

平野神社 平野神社 桜
清水寺 三重の塔 永楽屋 町屋手拭 八坂の塔

宇治平等院

鳳凰堂
やはりこんな写真 阿弥陀様拝見
鳳凰と降棟鬼瓦 南翼楼

 今日の最初の目的地は宇治平等院である。JR奈良駅で時刻表を見ると、宇治駅には「みやこ路快速」も普通列車も同じ時刻に着く。普通列車にした。小説でも読んでると、苦にもならない。このJR奈良線には良い観光地があるが、いつも通りすぎてしまう。宇治平等院がある宇治駅、伏見稲荷大社がある稲荷駅、黄檗山萬福寺がある黄檗駅、それに東福寺駅である。宇治平等院にはこれまで行ったことがなかった。平等院は鳳凰堂の写真が有名すぎて、門だけしかないように見える。行ってみると、修学旅行などの団体客がぞろぞろとバスで来ていた。個人客は少なそう。
 宇治駅でもらった地図にしたがって5分ほど歩くと宇治川にぶつかる。宇治川は水量も多く、流れも速い。この川は琵琶湖の瀬田川を源流として、淀川に注ぐ。急流をまたいで、和風の立派な宇治橋がかかっている。そばに大きな鳥居があるが、これは縣神社の入り口で、平等院に行くにはここを通らないよう注意書きがあった。鳥居の脇にやや狭いが、歩くには丁度良い綺麗な道があり、お土産屋がたくさん並んでいる。その入口のそばに紫式部の石像があった。宇治は『源氏物語』の最終編にあたる『宇治十帳』の舞台である。駅でもらった地図を見ると、宇治上神社は、光源氏の異母弟「八の宮」の山荘のモデルとなった場所と書いてある。それに、「橋姫の碑」や「東屋の古跡」、「手習の碑」、「浮舟の碑」など、『宇治十帳』の各巻の名前が登場する。
 お土産屋が並ぶ平等院表参道を歩くと、お茶の香りがただよってくる。お茶屋さんが沢山ある。そういえば、ここが「宇治茶」の産地だと気がついた。蕎麦屋のメニューには茶そば、甘味処には抹茶アイスクリームの看板が立っている。
 参道を5分くらい歩いて、宇治平等院の拝観受付に着いた。中に入ると早速見えたのが、かの有名な鳳凰堂である。東側に池があって、その池に羽を広げた鳳凰の形を写し込んだ有名な平等院の景色だ。池に波がなくて、空が青ければ、まさに絵葉書のような写真が撮れるのであろう。
 
 平等院は、源融の宇治山荘を藤原道長が譲り受け、その子頼通が永承7(1052)年に寺として改め、平等院と号させた寺である。鳳凰堂は阿弥陀如来坐像を収めるために建立され、もともと阿弥陀堂と呼ばれていた。鳳凰堂の名は江戸初期に付けられたものである。大棟の両端に金銅の鳳凰が向い合って立っている。この建物は正面から見ても、上から見ても、やはり鳳凰が飛んでいるような格好になっている。藤原道長、頼通の時代は藤原一門の最盛期なのだが、火事の頻発、疫病の流行、延暦寺や興福寺などの僧兵の横暴、武士階級の抬頭など、貴族階級にとっては末世の始まりを窺わせる世でもあった。この時期は浄土教思想が篤く信仰され、来世は阿弥陀如来が司る西方極楽浄土に生まれかわることが、多くの者の願望となっていた。鳳凰は極楽に棲む鳥として崇められ、阿弥陀如来を西方に奉るこのお堂そのものが極楽浄土の世界に擬せられていたことがわかる。阿弥陀堂建立当時、その前の池は宇治川の流れの一部になっていて、向こう岸、つまり彼岸に阿弥陀堂があり、池のこちらが、此岸(しがん)となっていた。此岸から彼岸に行くには、橋を渡れば容易に行くことができる。現在でも、阿弥陀堂に行くのに橋を渡るようになっている。しかも、此岸から阿弥陀堂の阿弥陀様のお顔を覗き見て拝むことができるようになっている。 
 鳳凰堂の中に入るには、入館時刻が決まっていて、私が鳳凰堂のまわりを写真に撮り終えた頃に、タイミングよく橋を渡らせてもらった。鳳凰堂の中には、平安期の代表的な名匠、仏師定朝が寄木造りで制作した阿弥陀如来坐像が、見上げる私たち拝観者を優しい慈悲のまなざしで見守っていた。阿弥陀様の頭上には丸天蓋、さらにその上に阿弥陀様全体を覆うように四角い大天蓋が下がっている。光背や天蓋のいずれにも宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)が透かし彫りされている。また、いまは色あせているようだが天井や小壁、柱などにも宝相華唐草の絵で飾られていたという。周囲の壁や扉には九品来迎図(くほんらいごうず)、背後の壁には極楽浄土図が描かれている。堂内南・西・北の長押(なげし)上の小壁には雲に乗って、笛や鼓、琴、琵琶、笙などを手にして奏する雲中供養菩薩像52体が懸けられている。朝早くこの堂内に籠り、「南無阿弥陀仏」を唱えていれば、まさに極楽浄土の世界にいるような感覚に襲われるにちがいない。鳳凰堂から目を転じて、池の方を見ると、現実の世界に引き戻されたように感じる。池の向こうに現世があり、極楽浄土から穢土(えど)を観る様である。なんとなく「厭離穢土欣求浄土」(えんりえどごんぐじょうど)という家康の旗印を連想してしまった。
 堂内の九品来迎図は復元模写図で、本物は平等院ミュージアム鳳翔館に収められており、雲中供養菩薩像のうち26体も鳳翔館に飾られていた。近くで見る菩薩像は一つ一つが個性豊かなポーズと表情をしている。持っている楽器や道具も違うし、乗っている雲の形もそれぞれ異なる。すべてが菩薩形ではなく、頭をまるめた僧形のものもまじっている。中でも北25号は傑作とされ、定朝の模範作ではないかと云われている。国宝の梵鐘も本物は鳳翔館にある。この鐘、「銘は神護寺、声(ね)は園城寺、形は平等院」、これを「天下の三名鐘」と称す、と云われて、名鐘の一つに数えられている。鳳凰堂の大棟に飾られている鳳凰像の本物の像も国宝と指定されているが、これも鳳翔館の中にある。実際の屋根に飾られているものは複製である。
 鳳翔館を出て帰りに見かけた平等院庭園のボケの花が美しかった。平等院の拝観受付の前にある藤の花ももう少しというところであったが、これも名物の一つになっている。平等院は何度来てもあきることはなさそうだ。寺院と云っても、坊主臭さがない。阿弥陀如来坐像も奈良の仏とは違い、平安期の仏像らしく親しみのある優しさのようなものを感じる。次は源氏物語『宇治十帳』巡りを兼ねて、廻るのもよさそうだ。
 平等院を出て、参道にある蕎麦屋で昼食をとった。手打ちの茶そばを食べたが、お腹がすいていて、美味しかった。
 平等院といえば、お札やコインの裏によく使われている。今の10円玉がそうだ。一万円札の裏の鳳凰も平等院の鳳凰だという。金閣寺や平安神宮にも屋根の上に鳳凰が飾られている。JRで宇治駅から京都駅に行き、バスで平安神宮に向かった。

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平等院阿弥陀如来 (640x585) 雲中供養菩薩 (768x603)
雲中供養菩薩北25 (435x393) ボケの花

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秋篠寺と法華寺

秋篠寺 本堂 秋篠寺 庭園
法華寺 本堂 法華寺 庭園

  旅行に出かけるときは、事前に、綿密なスケジュールをたてる。その方が費用的にも時間的にも効率的な旅ができる。今回のような割引キップを使う場合は、変更がきかないので、より神経質になる。薬師寺の次は、秋篠寺へ行く予定にしていた。薬師寺からだと直接行くバスがない。近鉄西ノ京駅から大和西大寺駅まで電車で行き、西大寺駅前から秋篠寺行きのバスに乗った。
 秋篠寺は奈良時代末期に建立された、光仁天皇勅願の寺院である。創建当時は金堂、講堂、東西両塔を擁した大伽藍であったが、幾度もの兵火に罹り、何度となく再興はなされたものの、現在では本堂と他数棟を残すのみとなった。この本堂は、鎌倉時代に再建された講堂と云われているが、唯一、国宝に指定されている。本堂の中に本尊、薬師如来と脇侍、日光、月光両菩薩が収められている。
 この秋篠寺は、学生時代に一度来ただけなのだが、奈良の数多い寺院の中ではあまり目立たないこの寺をなぜ訪れたのかはよく覚えていない。多分、高校の国語の教科書に載っていた西ノ京、とくに薬師寺の東塔の水煙の写真と和辻哲郎の「古寺巡礼」か亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」の文章に感銘して薬師寺に来て、から風呂のある法華寺まで足を伸ばし、そのついでに秋篠寺に寄ったのではあるまいかと思っている。
 そのとき、強烈な印象を残してくれたのが、伎芸天立像である。このお寺には本尊の薬師三尊像ではなく、この伎芸天像を見に来る人が圧倒的に多いと思う。学生時代に来たとき、キャビネ版程度の大きさの絵葉書を買って、アルバムに貼っておいた。ブログに入れようと思って探してみたが、アルバムが見つからない。今回、伎芸天立像を再び拝み、その時の印象がさらに深まった。写真ではやや丸顔に近く見えるが、お堂の中で下から見ると、お顔の美しさは何ともいえないほど写実的で、腰を少し横にひねった構図は極めて自然な女性の美を表している。昔の恋人に久しぶりに遭ったように、うっとりと見とれていると、なんとなく「東洋のヴィーナス」という言葉が口を衝いて出てくる。堀辰雄も「東洋のミューズ」と賞賛したと云う。
 秋篠寺の本堂もシンプルで均整のとれた、建物である。本堂を取り囲む昔の伽藍の跡には木々の間に綺麗な苔が生えていて、木漏れ日と苔の深い緑の対照が美しい。
 秋篠寺から、一旦西大寺駅まで戻り、次の法華寺に向かうバスに乗り換えた。途中、窓から広大な平城宮跡を眺めていると、まもなくして法華寺前のバス停に着いた。
 法華寺は聖武天皇の后、光明皇后が、父、藤原不比等の邸宅を、金堂、講堂、東西両塔の揃う大伽藍に改め、日本総国分尼寺とされたお寺である。天平の大伽藍も時代とともに衰退の道を歩み、現在の本堂といくつかの堂宇の姿になっている。このような事情は秋篠寺とよく似ているが、格式の高さや、知名度の点で優っている。本尊の十一面観音菩薩立像は光明皇后のお姿を写したとされ、国宝に指定されている。くっきりとした目とほのかに紅い唇の端麗な顔立ちで私たちに語りかけてくださるようだ。その衣をつまむ右手は異様に長いが、それがむしろ、女性らしい盛り上がった胸やくびれたお腹を補って、安定感のある美しさを醸し出しているのではなかろうか。この像は奈良後期から平安時代にかけて作られた榧(かや) の一木像で、わずか1メートルほどの大きさである。本尊、十一面観音菩薩立像の真像は一年のうちでもごく限られた期間しか拝見できない。私が見たのはレプリカと書いてあった。
 法華寺の中で、光明皇后の慈悲の心を伝えるもう一つの遺構としてカラ風呂がある。奈良時代にあったとされる蒸し風呂である。皇后は「我親ら(みずから)千人の垢を去らん」という誓をたてられ、人々の肌を洗われた。最後の千人目に現れたのが癩病人で、膿(うみ)を吸ってくれればこの病が治ると告げられ、皇后みずからその唇を肌につけられたが、膿を吸い終わったとたんに、たちまちその病人は如来に変わったと云う。「施浴」の伝説として伝えられている。
 法華寺はその庭園も美い。私が訪れた時期は枝垂れ桜、八重桜、つばき、レンギョウ等の多くの花が咲き乱れていたが、もう少し経つと、フジや花菖蒲、蓮などが咲き始める。
 法華寺を出て、バス停に向かったが、すぐ近くに、海龍王寺がある。この寺にも寄って行こうかと迷ったが、バスがすぐに来たので、次の機会にすることとして、奈良町へ戻った。

伎芸天立像 法華寺十一面観音 カラ風呂

薬師寺

薬師寺遠望
金堂 本尊 薬師如来坐像
東塔 西塔

 唐招提寺の南大門を出て、すぐ横の道を南にまっすぐ歩くと、10分程で薬師寺に着く。今回の旅行の最大の目的は薬師寺の東塔を完全な姿で見ておきたいということであった。今年の夏に入る前に修復工事が始まり、平成30年まで、覆いが被されて外観を見ることが出来なくなる。昨年の3月までは調査のための工事で覆いがかかっていていた。調査の結果、心柱の中が空洞になっていて、現在は応急処置をしてあるらしい。唐招提寺が2009年9月まで工事中だつたので、両寺院を完全な形で見ることが出来るのは昨年の4月から今年の夏前までのほんの少しの期間しか無かったのである。昨年の秋に来たかったのだが、健康上の理由で来そびれてしまった。3月11日の大震災の後ではあるが、この機会を逃すと私も年寄ってしまい、はたして修復された後の薬師寺東塔を見ることが出来るかどうか気がかりである。
 私が薬師寺を訪れたのは、今回で3度目である。最後に来たのが新婚旅行時だったのだから、ずいぶん長いことご無沙汰している。その当時は、高田好胤師が管主で写経勧進で金堂再建の費用を賄おうとしておられた。私たち夫婦が訪ねたときは金堂が再建途上で、薬師三尊像も工事中のお堂の中に鎮座していた。新婚の妻が書道家を志していたので、般若心経を写経して、納めたのを思い出す。その後、西塔も再建されて、今の形になったのを見るのは最初になる。文字どうり最初で最後の機会になるかもしれない。
 薬師寺に着くと、すぐに東塔を仰ぎ見た。何も被さっていなかったので、ひと安心して、東回廊の外をまわり、まず東院堂を見ることにした。東院堂が現在の位置に建てられたのは鎌倉時代で、国宝になっているが、中に収められているこのお寺で最も人気がある聖観音菩薩像は白鳳時代に制作された金銅仏である。聖観音菩薩像は若々しいお姿で、気品漂う端麗さを持ち、「祈りが昇華していく崇高なお姿」と賞賛されている。この優美さは日本の仏像の中でも屈指の名作と云うことができる。
 東院堂を観たあと、東回廊をまわり、東塔と西東の写真を何枚も写し、中門をくぐり、金堂に向かった。金堂は美しく彩色され、バランスのとれた姿で建っている。竜宮造りと云われる白鳳時代の美しい伽藍が再現されていた。西塔もできたばかりで美しいが、歴史の重みを感じる東塔の美しさはさすがである。「凍れる音楽」と称されるだけに相輪の頂上に取り付けられた水煙から裳階(もこし)をつけて六重に見える三重の塔が、リズミカルで全体的な調和をもたらし、柔軟にしてかつ長い歴史を耐えてきた強靭さを感じる。
 金堂の中には、薬師如来と日光菩薩、月光菩薩の薬師三尊像がいつもの(写真で見る)お姿で優しく私たちをお迎えしてくれた。薬師三尊像は白鳳時代に作られた金銅仏であるが、つやややかで美しく、永遠の美をたたえている。台座には西方からもたらされたといわれる葡萄唐草文や邪鬼などの彫刻がなされ、はるか彼方から伝わってきた仏教芸術の終着点になっていることがわかる。
 薬師寺は天武天皇が皇后、鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)の病気平癒を祈願して、建立を発願したお寺である。天武天皇は壬申の乱の主役として名高いお方で、日本の歴史の中で、史実として皇室の起点に立つ天皇である。鵜野讃良皇女は天武天皇の兄にあたる天智天皇の娘で、後に持統天皇として、この薬師寺の本尊開眼(697年)をなされた女帝である。唐招提寺の完成より60年ほど前になる。
 薬師寺は幾多の災害を経ており、とくに享禄元年(1528年)の戦禍で東塔を除く全ての堂宇が灰燼に帰したとされている。和辻哲郎の「古寺巡礼」岩波文庫版のカバー写真は、西塔の礎石を前面に据え、樹木に囲まれた東塔を望む構図になっている。また、薬師寺の項では、「小さい裏門を入ると、そこに講堂がある。埃まみれの扉が壊れかかっている。古びた池の向こうには金堂の背面が廃屋のような姿を見せている。まわりの広場は雑草の繁るにまかせてあって、いかにも荒廃した古寺らしい気分を味わわせる。」と記され、大正時代の薬師寺の姿がうかがわれる。
 薬師寺を見物した後、近鉄西ノ京駅のそばを通って、大池に向かった。大池から望む薬師寺の遠景は是非ともカメラに収めておきたい景色で、薬師寺のパンフレットの表紙にも使われている。バスや車の通る、緩やかな坂道を15分くらいかけて、ようやくその風景が望める場所に到着した。冬の早朝に撮れば色鮮やかな西塔や金堂を写し取ることができるだろうが、この時期の昼間では望むべくもなかった。

薬師如来像 聖観音菩薩像 吉祥天女画像

唐招提寺

金堂
金堂の柱 本尊 盧舎那仏坐像
千手観音立像 薬師如来立像

 ホテルで朝食を済ませ、バスで最初の目的地、西ノ京へ向う。奈良・西ノ京フリーキップを買って、まずは唐招提寺に行くことにした。
 このお寺は天平時代に創設され、聖武天皇の求めに応じて、唐の高僧、鑑真和上が苦難の末に盲目になりながらも渡来して、日本で仏教の発展に尽力された授戒の場である。薬師寺と並んで西ノ京と言われているが、朱塗りのお寺、薬師寺に比べるとやや地味な感じがする。10年の歳月をかけた金堂の大修理が行なわれ、2009年に落慶法要が行なわれた。1998年に世界遺産として登録されている。唐招提寺といえば金堂の屋根の両翼にそびえる鴟尾(しび)が有名だが修復前にあったものは新宝蔵に収められて、現在は新しく作られたものが飾られている。この10年の大修復時に調査した結果、何度もの修理にもかかわらず、多くの材料が創建当時のものだという。金堂内に収められた仏像は本尊である廬舎那仏坐像、右脇の薬師如来立像、左脇の千手観音立像他ほとんどが国宝となっている。金堂の裏に講堂があるが、この建物も国宝である。その他の建物、鼓楼や宝蔵、経蔵も国宝となっている。
 今回訪れたときは、拝観できなかったが、このお寺で最も有名な像、鑑真和上坐像は御影堂の中に安置されている。6月6日の開山忌を挟んだ3日間のみ公開される。普段は御影堂の境内にさえ入れないが、障壁画は東山魁夷によるものである。
 私が、御影堂に入れないので、外から写真を撮っていると、知らないおばさんから「ここは何ですか?」と質問された。「いやね、実はこの建物の中にこのお寺の中で最も有名なお像があるんですよ」と答えて、鑑真和上坐像のことを話した。「このお寺も10年もの間、修復工事が行われていたんですよ」と云うと「その間、中の仏さんたちはどこに行っていたんですか?」と聞かれたので「ほら、あちらこちらの博物館なんかで、唐招提寺展が開かれていたでしょう」と返答した。ひとり旅のときはこういう会話が実に楽しい。相手が一人だと話しかけやすいのだ。私にとって、今回の訪問は多分、3度目だと思うが、最初は学生時代である。その頃は鑑真和上坐像は金堂の中の厨子に収まっていたように思う。御影堂がここに移築された年代からすると、必ずしも私の勘違いではないのかもしれない。
 それにしても、日本最古の肖像彫刻である鑑真和上坐像を除くと、唐招提寺の仏様はなんとおおらかなのだろう。金堂の中は国宝級の仏像がずらりと並んでいるのに、写真撮影が禁止されていない。他の大寺院に比べると、やや地味な所為かもしれない。とはいえ、金堂内の巨像三体は立派である。本尊である盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像の三体はそれぞれが独立した本尊としてもおかしくはない。本来、如来の脇士は菩薩である。和辻哲郎はその著作『古寺巡礼』の中で、この三体を比較して、千手観音立像を絶賛している。確かに、木心乾漆千手観音立像は535cmの巨体で、東大寺、法華堂(三月堂)の不空羂索観音立像の362cmに比べてもはるかに大きい。制作されたのはほぼ同じ時代といえるが、その優しい表情にもかかわらず、ここの千手観音様は本尊ではないという点で、評価が低いのかもしれない。斯く云う私も三月堂の不空羂索観音を最も優れた天平仏像だと慕い、その荘厳さには圧倒されてきた一人である。
 唐招提寺の最も美しいところは、何と言っても、金堂の外観であろう。奈良時代の建立以来、唯一現存する本堂である。その美しさは『古寺巡礼』の中で、「寄棟になった屋根の四方へ流れ下るあらゆる面と線との微妙な曲がり方、その広さや長さの的確な釣り合い、ーーそれがいかに微妙な力の格闘によって成っているかは・・・・・。さらにこの屋根とそれを下から受ける柱や軒廻りの組み物との関係には、数えきれないほど多くの繊細な注意が払われている。」と述べられている。金堂を正面から見ると、今さらながらその優れた美しさに感銘せざるをえない。鴟尾と鴟尾の間の大棟も中央が微妙に下がっていて、棟木が瓦の重みを自然に受け止め、鴟尾から落ちる下り棟の末端にいたる彎曲との絶妙な調和は何ともいえない。この繊細な屋根の造形を受け止める八本の柱の間隔も真ん中が広く、端になるほど狭くして、全体的に幾何学的な美しさを表現している。
 今回の旅で最初に訪れた唐招提寺を十分に堪能して、次の薬師寺に向かった。

金堂内全体 鑑真和上坐像

奈良、京都の旅、第一日

手打ち蕎麦「雄町」の雰囲気
「雄町の入り口 「雄町」の坪庭

 3泊4日で京都と奈良に出かけた。今は丁度花見のシーズンで、最も賑わう時期である。ただ、今年は3月11日の地震と津波による福島原発の事故で、中国や韓国の観光客が激減したようで、有名な観光地でも人は少ないと云われている。
 京都や奈良は飛行機が不便で、新幹線に頼らざるを得ない。バスだと安いのだが、私のような不眠症の人間にとってはいささか怖い。「ぷらっとこだま」という割引キップがあるのに気づき、ネットで購入した。通常料金に比べると片道3000円以上安くなる。時間的にはひかりより30分多くかかるだけだ。
 我孫子を9時半過ぎに出て、京都で乗換え、「みやこ路快速」で奈良まで行った。奈良に着いたのが3時半頃でJR奈良駅前のスーパーホテルにチェックインした。興福寺あたりまで歩いてみようと思ったが、風が強く、小雨まで降ってきたので、コンビニでお酒を買ってホテルでのんびりした。いつもは旅行案内などを見て、夕食をどこにするかを考えるのだが、結構裏切られることも多いので、今回はホテルのすぐ近くの店に入ることにした。駅の前に「笑々」の大きな看板が目立つが、一階は奥まったところに蕎麦屋と和食の店があったので、「雄町」という手打ち蕎麦屋さんに入った。
 6時を過ぎたばかりで、お客さんもいなかった。日本酒と酒の肴を注文した。お相手をしてくれたのが、なんとまだ二十歳(はたち)を過ぎたばかりの女の子に見える女将さんだった。最近はあまり見ない格好だが、赤ん坊を背中におんぶしている。赤ん坊は首を横にして良く眠っている。女将さんが若い上に、美人で愛想も良い。良い店に入ったと思った。お酒を注文したら、「山廃純米吟醸雄町」というのが出て来た。後で調べてわかったことだが、「雄町」というのは日本酒醸造用のお米の銘柄名だという。現在の日本酒醸造用米の主流は山田錦だが、雄町は山田錦の親品種になるようで、岡山県産がほとんどらしい。美味しいお酒である。
 若い女将さんとお話しながら、お酒、それに手打ち蕎麦を味わっているうちに、私と同じくらいの年配のお客さんが入ってきた。この店のお馴染みさんのようだ。3人でお話しているうちに、もう一人、今度は女将さんよりもっと若そうな女性が加わった。この店でアルバイトをしている奈良女子大の学生だそうだ。頭脳明晰なのだろう。奈良女子大といえば、数学者の岡潔博士を連想する。
 話が盛り上がったところで、このお店がすっかり気に入ってしまい、急遽ホテルに戻って、カメラを持参、この店の雰囲気を撮影した。この店のご主人、山本一喜さんも、勿論、若いのだが、好青年である。以前ブログで紹介した東京町屋の「きくすい」のような和やかな雰囲気で一晩を過ごした。私が良い店か否かを判断する目安にするのが、お店の清潔さ、とくにトイレの綺麗さだが、これもすばらしい。お持て成しの心が良く伝わってきて、それが料理の味にも反映される。我家に近ければ良いのだが、こちらに来たときは是非とも立ち寄りたいお店である。

綺麗な店内