祝25周年あびこ舞台記念公演

 平成29年5月14日(日)に我孫子市湖北地区公民館で我孫子稲門会の相談役、飯牟礼一臣さん主宰「あびこ舞台」の創立25周年記念公演が開催された。
 私が我孫子市に住んで丁度40年になる。ペタンクの練習で湖北には車で何度も来ているが、この公民館に入るのは初めてで、駐車場がどうなっているのかもわからない。
 中に入ってみると、建物は古いが、中のホールは十分に広い。音響もこの前「源氏物語」を公演したけやきプラザより良いと思った。
 公演劇は「あびこ舞台」の代表的な劇作「あなた いいお月様ですね」と新規に企画された朗読劇「畝傍(うねび)消ゆ」である。前者はデイケアセンターの中を背景にして、認知症の方々を描いており、「人間の尊厳」をテーマとしている。後者は明治19年に発生した海難事故、軍艦「畝傍」の消失事件を朗読劇にしたものである。ちなみに「畝傍」の日本側艦長飯牟礼俊位(としたか)海軍大尉は飯牟礼劇団代表の祖先である。2本立てでご覧になると2時間ほどかかるが、じっくりとご覧になって下さい。 飯牟礼さんは現在81歳、いまだに新たな新規作品にチャレンジしておられる。

 鶴

超訳『源氏物語』現代版

 12月11日に我孫子市の「けやきプラザホール」で「源氏物語」が公開されました。我孫子稲門会の相談役、飯牟礼一臣さん主宰の市民劇団「あびこ舞台」が公演、飯牟礼さんが脚本・構成・演出を手掛けられました。また自らも出演、右大臣役をつとめておられます。
 さて、「源氏物語」、紫式部作で平安中期に書かれている、日本の代表的な小説で、日本人なら知らない人はいないほど有名です。ただし、有名なわりに原文で読むのはおろか、与謝野晶子をはじめとして、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴、田辺聖子といった有名作家の現代語訳でさえあまり読まれていません。それを「超訳『源氏物語』現代版」としてすべてを現代風に置き換え、ストーリーはほぼ原作に近いかたちでありながら分かりやすく2時間の演劇になっていました。演劇の展開は原典に忠実ですが、脚本、演出などに多くのギャグが入れられて客席からの笑い声が絶えません。
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  超訳「源氏物語」の公演を終えて         飯牟礼 一臣
 光源氏がジャズのリズムに乗って、背広姿にシルクハットで登場する超訳「源氏物語」。平成28年12月11日、我孫子駅前の「けやきホール」1日2回の公演には950名のお客様がご来場、大盛況の裡に幕を下ろすことが出来ました。
 初演は2年前。原稿用紙に換算して二千五百枚、登場人物四百数十人という世界に誇る大長編を現代版に変えて挑戦してみたものです。冒険と言うより無謀に近い挑戦でした。
 今回は光源氏の「愛の遍歴」と藤原一族70年にわたる生きるか死ぬかの「権力闘争」、この二つを絡(から)めて、分りやすくユーモアも加味して大幅に書き直しました。多くのお客様から「前回より一段と判りやすくなった」との評価を頂きました。
 あびこ舞台は今年で創立25年を迎えます。地味な活動でしたが、昨年10月、全国で元気に活動している70歳以上の人物を毎年10名顕彰する読売新聞社の「ニューエルダーシチズン大賞」受賞者の一人に選ばれました。
 この入賞で早稲田大学・鎌田薫総長から「早稲田の誇り」との祝辞と紅白のワインが送られてきました。この栄誉に応えるべく、更に精進を重ねたいと思っております。
 今年も5月に認知症老人の哀感をヒューマンタッチに描いた作品を、12月には地球温暖化と放射能汚染で二千年後に人類が滅亡するSFミュージカルを、それぞれ上演の予定です。ご来場頂ければ幸甚に存じます。
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 私のこだわりですが、この演劇を2017年の元日にホームページで公開することでした。映像をご覧になる方のことを考え、極力短くしたつもりですが、それでも1時間20分の大作になってしまいました。動画の撮影編集具合は恥ずかしいほどですが、我慢してご覧ください。
 

 執筆 鶴

戦国武将に学ぶ~真田三代生き残りの戦略~

真田信繁

 平成28年度我孫子稲門会総会の最大の呼び物は、静岡大学名誉教授文学博士、小和田哲男先生(1972年早稲田大学文学研究科博士課程修了)による上記講演であった。先生は、多くの著作とNHK大河ドラマの時代考証、歴史番組への出演で有名な方である。
 ここで、先生の講演を要約して、執筆させていただいた。なお、NHK大河ドラマの時代考証に関しても貴重なお話があったが、省略させていただいた。

真田三代とは

 真田三代とは真田幸隆、昌幸、信繁を云うが、「生き残りの戦略」というからには、徳川の世になっても大名として真田家を残した信幸(後に信之に改名)の存在を忘れてはならない。
「兄(信幸)は家を残し、弟(信繁)は名を残した」と云われる所以である。
 戦国武将、真田と云えば、真田幸村ということになっているがNHK大河ドラマ「真田丸」では真田左衛門佐信繁という名で出てくる。史実として真田信繁が「幸村」と名乗ったことは無い。「幸村」という名が出てくるのは約50年後に出た「難波戦記」という軍記本からである。確かに真田氏の系図を見ると名前に「幸」という字が通字(つうじ)あるいは通り名になっている。それと本名を出すのがはばかられた時代で「幸村」となったらしい。さらに江戸後期になると「真田三代記」が出てきて、真田三代というと真田昌幸、幸村、それに幸村の子の大助(幸昌)になる。明治になると立川文庫(たつかわぶんこ)から出た時代小説に真田十勇士が登場するようになって、我々が小さい頃には猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道などの忍者、豪傑の人気が高くなる。大助は若殿としてぴったりなのかもしれない。

真田家が乱世をいかに生き残ってきたか

 真田氏は信濃と上野の境界に位置する四阿山(あずまやさん:日本100名山)附近を領していた豪族で、四阿山は修験者すなわち山伏の道場のようなところであった。彼らは各地を自由に行き来できて、互いの情報ネットワークを持っていて、情報を取るだけでなく、流すこともできたのである。これが後の忍びの者と言われるようになった。この情報網と、信濃、越後、上野の国境という地勢を生かして、真田家は生き残ってきた。真田十勇士はまんざら作り話でもない。
 真田家の本拠地は松尾城あたりで現在の上田市真田町になるが、信州と上州の国境で上州街道(国道144号線)を抑えていた。真田氏が大きくなっていったのは、幸隆(幸綱ともいう)の存在が大きかった。一時、武田信虎と戦ったこともあるが、結果として武田信玄の家臣となっている。その後、村上義清が持っていた砥石城を、調略をもって攻め落としたこと、さらに川中島の合戦でも大いに功を上げたことで、武田家臣の中でも上位の地位まで上り詰めている。

真田昌幸の生き方

 昌幸には二人の兄がいて、幸隆の後は長男の信綱が継いでいる。この時期、昌幸は「武藤喜兵衛」と名のっていた。
 信玄が病死し、武田勝頼が家督を継いだのち、武田軍と織田信長・徳川家康連合軍との戦い、世にいう「長篠の戦い」正確には「長篠設楽ヶ原の戦い」で武田が敗れる。この戦で兄二人が討ち死にし、真田家は真田昌幸が継ぐことになる。
 武田勝頼は長篠の戦い以後、北条氏をたよるが、上杉謙信没後の内乱、「御舘の乱」で景虎、景勝の和平に成功する。その後、北条との対立、上杉景勝からの庇護があり韮崎に新府城を築城する。しかし、ここも織田徳川軍に攻められ、昌幸は自分が治めている岩櫃城へ向かえようとするが、勝頼は小山田信繁の居城、甲斐の岩殿城へ逃れることを決意する。しかしこの途上、織田軍に寝返った信繁に行く手を阻まれ、勝頼は討ち死にし武田家は滅亡した。
 真田昌幸が岩櫃城に居を構えている頃の信濃は完全な草刈り場になっていた。北に上杉、南に徳川、東に北条、他の隙間には織田の家臣団が領していた。
昌幸は信長に臣属し、滝川一益の配下になる。ところがその2ヵ月後、本能寺の変が起こり、同じころに滝川一益が北条氏に敗れると、昌幸は北条氏に就くことになる。結局、滝川一益は織田家の後継者選びとなる「清須会議」にも出席できなかった。
この頃の主従関係の不安定さはあきれるばかりだが、それが当たり前であった。昌幸は北条氏とも縁を切り、徳川に就いていた弟の信昌(信尹)の斡旋で徳川方に属することになる。
 その前に昌幸が領有していた沼田城が北条氏に攻められるが、昌幸はこれを撃退している。しかし、その直後、徳川・北条の和睦が成り、徳川北条連合対上杉の対立がおこる。
 ここで、昌幸は徳川家康に、上杉を攻撃する拠点として上田に城を築くことを願い出、徳川のお金と兵力を使い、上田城の構築を行っている。上田城はこの後、難攻不落の城となっている。この後のことを考えると、極めて政略的な城づくりと云える。徳川の金と労力で堅固な城を築き、後にこの城を使い徳川と二度の戦に勝利することになるのだから。
 翌々年、すでに北条と結んで上州を北条領とした家康は昌幸に沼田と岩櫃を北条に渡せと申しわたす。これに対し昌幸は、沼田と岩櫃はもともと真田のもので、北条に渡すわけにはいかないと断っている。真田領は上杉と北条の間にあって、どちらも咽から手が出るほど欲しい要所である。北条と手を結んだ徳川を離れ、昌幸は上杉景勝と同盟し、次男の信繁を人質として送っている。
 それに怒った家康は昌幸の居城、上田城に7千の兵を送っている。真田方は兵2千、攻者が籠城している兵の3倍の兵を送れば勝てるという説があるが、この上田合戦ではそれを超えている兵でも落とせなかった。これが第一次上田合戦と称される。

真田信繁、信幸の世代

 真田信繁は上杉の人質に出されたときは、すでに19歳になっていた。ここで、上杉軍法を学ぶことになるが、父からは武田軍法、この後に豊臣軍法を学んでいる。これが第二次上田合戦の勝利につながっている。
 豊臣秀吉が天下をとると、真田昌幸と徳川家康の対立は秀吉の斡旋で、和解する。信繁も豊臣への人質になってはいるが、秀吉からは大いに可愛がられ、直々の馬廻衆となり、従五位下左衛門佐に任じられ、豊臣の性まで下賜されている。昌幸も豊臣家配下の大名として取り立てられる。
一方、信幸は徳川家に仕え、家康にその才を認められ、従五位下伊豆守に叙任されている。
 この頃の女性の活躍は目を見張るものがある。後に真田家が東軍と西軍に分かれ、真田家断絶を免れたのも女性のおかげである。長男の信幸は徳川四天王の一人、本田平八郎忠勝の娘で、家康の養女として嫁いだ小松姫を正室としている。一方、信繁は石田三成の親友、大谷吉継の娘竹林院を正室としている。正室の他にも多くの側室がいて、子孫を残している。

関ヶ原の戦い

 家康は豊臣秀頼の命で、上洛に応じなかった上杉景勝討伐のため、軍資金2万両と兵糧2万石を受け取り、江戸に帰国。徳川方の兵を集めて、会津に向かう。下野小山に来たころ、石田三成挙兵の報を聞き、そこで上杉討伐軍に加わった諸大名を集め、協議する。1600年7月15日の「小山評定」である。
上杉討伐から反転し、西に向かうことになる。豊臣恩顧の大名たちも福島正則をはじめ、三成には従わないものが数多くいて、ほとんどが、石田三成との戦いに向かった。
 昌幸、信幸、信繁は徳川との戦を決意した石田三成からの書状を下野の国、犬伏(栃木県佐野市)で受け取っている。昌幸は三成とは姻戚関係もあり、第一次上田合戦の因縁もあって、西軍に、信繁は三成の親友である大谷吉継の娘を正室としているため、やはり西軍に、一方信幸は本田忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているため東軍に就くことになった。もちろん、真田家の存続を念頭に置いていたのは間違いない。
小山評定の後、昌幸と信繁は上田城に戻るため、途中、信幸の居城沼田城に寄って、孫の顔を見たいと訪ねているが、小松姫から、昌幸の思惑を見透かされ、丁重に断られている。「さすが、本田忠勝の娘」と笑って通り過ぎたという話もある。
 昌幸と信繁は上田城で、徳川秀忠率いる東軍本体3万8千の兵を2千の兵力で徹底した籠城戦を戦っている。これを第二次上田合戦という。
この合戦の中では信幸は徳川方として参加している。このとき、砥石城を守っていた信繁は、自ら兵を引き揚げ信幸の功としている。
結果として、秀忠は1600年9月15日の関ヶ原の合戦に遅参している。
 西軍が敗れたのがわかった後も、昌幸、信繁は数回の戦いをしかけてはいるが、結局、降伏、開城している。
本来なら敗軍の将として死罪になるところだが、信之と本田忠勝の懇願により、紀伊、九度山(くどやま)に流罪となっている。昌幸は九度山で死亡する。

大坂冬の陣

 時は流れ、1614年に大坂冬の陣が勃発する。豊臣方は恩顧の大名に期待できず、多くの浪人を集める策に出る。信繁は上田にいる昌幸の旧臣たちを集め大坂城に入った。
 大坂にいた淀君や大野治長らの当初からの籠城案に反対、浪人たちは打って出ることを主張したが受け入れられず、信繁は、それならばただ単に籠城するだけでなく、敵を呼び込んで反撃する策を唱え、大坂城で最弱部とされた三の丸南側に出城を築くこととなった。これが世に云う「真田丸」である。
徳川方は20万の大軍がつめかけ、豊臣方は10万の浪人が集まった。その中には、後藤又兵衛、長曾我部盛親、木村重成などの名立たる武将もいた。
 「真田丸」には5千の兵が詰め、徳川方を銃で攻撃、疲弊させていった。徳川方は、和平に持ち込もうと、2キロも飛ぶ大筒(大砲)を使い、本丸を攻撃した。それがたまたま、本丸に命中し、淀殿の側近の女が死に、恐れおののいた淀殿の方から講和を申し入れる結果となり、徳川優位の和平がなされた。
その条件は、真田丸を破壊すること、外堀の一部を埋めることであったが、勢いに勝った徳川方はすべての堀を埋めてしまう。

大坂夏の陣

 半年後、徳川勢は15万の兵を集め、大坂城を攻撃。堀をすべて埋められた大坂城は籠城戦にはすでに役立たなくなり、大坂方の浪人も多くが立ち去り7万の兵で打って出ることとなった。道明寺・誉田合戦をはじめ、各地で合戦となったが、兵力に勝る徳川方が優勢となる。
天王寺・岡山合戦で大坂方は迎撃をこころみる。その中で、敵は家康のみとして本陣に突撃した真田信繁の猛攻に徳川本陣は大混乱に陥るが、死を覚悟の戦に疲れ果てた信繁も遂には、討ち死にした。
 その後、豊臣秀頼の正室千姫による秀頼の助命嘆願に対しても、家康は許さず、豊臣家は滅びることとなった。

真田家のその後

 真田信繁の一人息子、大助(幸昌)は大坂城にもどるが、豊臣秀頼の死とともに殉死している。
真田家を引き継いで生き残ったのは、信之である。関ヶ原後、昌幸、信繁の助命嘆願の際に、真田家の通字「幸」を捨て、信之と改めている。
信之は大坂の陣には病気のため参戦していない。二人の息子が出陣している。
 信之は夏の陣後、上田藩主となるが、その後、松代に加増移封され13万石の松代藩主となる。後に、沼田真田藩3万石が独立して、松代藩は10万石になり、子孫は明治になって伯爵にもなっている。

執筆 鶴

真田家関連地図上田城全景
真田丸イメージ大坂夏の陣屏風

エッセイを楽しむ

 一昨日、2007年10月に書いたブログにコメントが来ました。全く知らない方からです。我孫子稲門会の中にも高峰秀子さんのエッセイをもう一度読んでみたい方もいらっしゃると思い、再度掲載しました。鶴

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 「お悔やみに行くのよ、つらいわ」。そう言ってお隣の奥さんが坂をおりて行った。その喪服のうしろ姿を見て「黒っていいな」と思った。  喪服の女が美しく見えるのは定評があるけれど、しかし、潤んだ心と伏せたまぶたがあってこそ、はじめて黒の喪服がものを言うので、黒は気持ちで着る色だと、つくづく思う。

 白も黒も、のっぴきならない色である。白は気高く潔癖で、黒は内にひかえて沈む色。西洋では粋な色とされている黒も、日本では政治の黒幕、腹黒いやつ、相撲の黒星、犯人は黒か白かなどと、ろくな形容には使われないし、せんじつめれば抹香臭く、しょせん黒は凶に通じる色である。

 着こなし上手といわれる人にも、黒はなかなかの難物である。若い人には似合わないし、乱暴に着ればやぼになる。人生の雨風をくぐった年輪を、黒一色で生かすか殺すかは、その人のセンス一つである。つまり、黒は一癖も二癖もある人の着る色といってしまえば、黒が似合うというのは、あまり自慢にもならないことかもしれない。いずれにしても、黒を着るのはちょっと「かくご」のいることである。

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 上記文章を読んで、どこかで読んだと思われた方もいるかもしれない。この文章は昭和34年9月8日づけ『朝日新聞』の「きのうきょう」というコラムに掲載された、高峰秀子さんが書かれたエッセイである。  この文章が一躍有名になったのは、昭和35年、東京大学の国語の入学試験問題に出されたからである。有名になったと言っても、その後に、国語の受験勉強をしていた受験生の間だけかもしれないが。ほぼ私と同年代以降の人たちである。その当時、私はこの文章はなかなか親しみやすく、「味」のある「粋」な文章だと思った。

 高峰秀子さんと言えば、「二十四の瞳」や「喜びも悲しみも幾年月」など多くの映画に出演され、だれでも知っている大女優である。どちらかと言えば文章とか学問とは無縁の人である。同じ『朝日新聞』でも「天声人語」からは多くの文章が試験問題に引用されている。  この高峰秀子さんの文章も東大の先生が選んだくらいだから、良い文章にちがいないと思う。

 この文章に「味」があって「粋」が感じられるのは何故だろう。多分、文の構成と文体の歯切れの良さから来ているものと思われる。高峰秀子さんの人そのものから自然に湧き出た感性が文章に表れているのかもしれない。  この文章は3文節に分かれているが、第一文節は筆者が思ったそのままの感情を書いている。高峰秀子さんの静かで美しい喪服姿が連想される。第二文節では黒という色を彼女が普段着のままのときのベランメー調でコテンパンにやっつけている。第三文節では冷静に黒を着ることの難しさを、女優としての彼女の経験から、彼女自身の意見として述べている。
エッセイのような文章を書くのをそんなに難しく考えることはない。ここに挙げた高峰秀子さんの文章のように、すなおに感じたことを書き、一般的にはこう言われているが、なぜそうなんだろうと考え、そして自分の意見を述べればよい。パソコンを使えば、いきあたりばったりで書いても、つじつまを合わせるのは簡単だ。その文章の変化していく過程を見るのが実に楽しい。  ブログの記事を書くために、文章の書き方を勉強している中で、たまたま見つけた懐かしい文章を読んで、「文章の書き方とはこんなものか」と、思ったことをそのまま書いてみた。

国際学生寮(WISH)訪問  

WISH外観

 中野駅に着いたときに、その周辺の変貌ぶりに驚きました。駅前に大きな公園があり、周りに大きなビル群があります。昔の名残と云えば、中野サンロードが駅前から伸びているのが分るくらいでした。
 メールでいただいた地図をたよりに、帝京平成大学を左に見て、その先に黒く見える大きな建物がそうだなと見当をつけて、まもなく「早稲田大学国際学生寮WISH」に着きました。
 私達3人が中に入るとすぐに「我孫子稲門会の方ですね」と挨拶いただき、まず2階の教室で、寮の概要説明を受けました。
 このWISH(Waseda International Student House)は11階建てで3階から11階までが寮生の部屋になっています。各部屋に4人が住み、その中はプライベートスペース4室と共用スペースになっていました。この寮はその名の通り留学生が日本の学生と共同生活をしており、現在は3割が留学生だそうです。将来的には留学生を5割にしたいとのことでした。現在各部屋に一人が留学生で三人が日本の学生だそうです。昨年の3月に竣工したばかりで、ここが学生寮かと思うような建物と施設の充実ぶりでした。二階にはフィットネスルーム、防音壁の付いた音楽室、共同浴室があります。各フロアに沢山のIHヒーター、流し台付き調理スペースがあって各自が持参した炊飯器が置いてありました。ランドリールームも各フロアにあります。
 各部屋は中央の廊下からガラス越しに見えるようになっていて、共用スペースの様子がわかるようになっています。
 当然、フロアごとに男女別になっています。エレベーターは男性用と女性用に分かれていて、異性フロアに立ち入ることはできないようになっています。
 我孫子稲門会の寄付の証しとなるプレートは4階の一番奥の部屋に飾ってありました。
 この寮の定員は872人ですが、新入生が対象で在寮期間は2年間です。他にも東伏見と千駄木に直営学生寮があります。また、早大生のみ入居するWIDという提携寮が10ヶ所あり、他大学と同居する寮が10ヶ所あります。WID(Waseda International Dormitory)も留学生と同居して、国際性豊かな人材育成の場となっています。
 WISHの建物を出て、中野駅前の大きなスペースを再確認して、よくこんなスペースがあったものだと思ったのですが、前は警察大学校や警視庁警察学校があったそうです。その前はかの有名なスパイ養成機関、陸軍中野学校があった所だったのです。
                 訪問日 2015年5月19日 鶴 征四郎     

寮室の共有スペース ガラス越しに廊下から見えるプライベートスペース フィットネスルームダイニングキッチン 風呂場 音楽室 寮室プレート

第10回「鳥と楽しむまち絵画コンテスト」

あびこショッピングプラザで10月18日に第10回「鳥と楽しむまち絵画コンテスト」が開催されました。主催者は我孫子稲門会の濱崎さんが代表を務める「住み良いまちづくり研究所」です。
大塚会長の方針で、我孫子稲門会もこれからボランティア活動にも取り組んでいきたいとのことで、濱崎さんに依頼され、「お茶会」でやったように、写真とビデオの撮影をやりました。別に難しいことではなかったのですが、苦労したのはWindows Live ムービーメーカーを使って、本格的なスライドショーを作ることでした。これをYouTubeに載せるため、字幕や音楽も入れて作成しました。
最優秀の作品は千葉県知事賞ですが、もう一つ上の賞があって、受賞者は、来年、ワシントンに美術研修に行けるというものです。
ボランティア活動というより、このコンテストの知名度をあげるのに協力するという光栄にあずかったと思っています。
鶴 征四郎

恥ずかしき日本人

 イソップ寓話の中に「オオカミ少年」という、有名なお話がある。「羊飼いの少年が、退屈しのぎに『狼が出た!』と嘘をついて騒ぎを起こす。大人たちは騙されて武器を持って来て、『オオカミはどこだ~』と騒ぎ出す。それが面白くて少年が繰り返し嘘をついたので、本当に狼が現れた時は大人たちは信用せず、誰も出て来なくなった。そのため、その少年は狼に食べられてしまう」というあらすじである。小中学生の頃、悪ふざけで嘘をつき、それを信用して困った顔をすると。「バーカ、騙された! 騙された!」と面白がる子供がいたものだった。
 6月2日にそんな子供ではなく、大の大人の話が、新聞の第一面で報道された。菅直人首相の話である。この日、正午過ぎに民主党代議士会で、首相は東日本大震災の復旧・復興と東京電力福島第一原発事故の対応に一定のめどがついた段階での退陣を表明した。これを受けて、鳩山前首相から、この日に野党から提出される予定になっていた内閣不信任決議案に反対するよう呼びかけがなされた。それまで、鳩山氏も小沢一郎元代表も賛成の意向を表明し、民主党の造反議員は90名を超えると予想され、衆院本会議で内閣不信任案が通過し、菅内閣が総辞職するか、解散総選挙になるかのどちらかになっていたのである。
 賛成から反対に変わった、鳩山氏は午前中に菅首相と首相官邸で会談をして、一枚の文書を差し出し、サインまで求めていた。「同じ身内の話で、署名まではいらないでしょう。私を信用して下さい」の返事に、サインはなされなかった。この会談で、「復興基本法が成立し、第二次補正予算案のめどがついたら退陣していただきますか?」に対して、「分かりました、合意します・・・」の約束がなされた。この時期に、衆院解散総選挙は不可能に近い。また、総辞職しても、このままでは民主党が分裂し、自民党に内閣を明け渡しかねない。鳩山氏としては首相の自主的な内閣総辞職が最も望ましいところだった。上記の条件なら、6月中にでも内閣総辞職がなされ、菅首相の退陣も可能である。
 結局、衆院総会ではそれまで賛成に廻っていた民主党議員が、鳩山氏の呼びかけで鞍替えし、賛成「152」反対「293」で内閣不信任案は否決された。
 ところが、採決後の記者会見で、首相はしてやったりと満面の笑みを浮かべ、「鳩山氏との会談ではそういう話もあったが、約束はしていない。文書には退陣の時期などどこにも書いていない。一定の『めど』とは原発が冷温停止になった頃だ」と述べている。このときの写真はまさにふざけて、「バーカ、騙された! 騙された!」と笑っているがき大将の顔である。子供がふざけて嘘をつく程度ならいざしらず、この千年に一度の国難に対峙して、真剣に復旧・復興を願う宰相の顔ではない。まるで、政治を弄んでいるようだ。
 翌日の新聞で報道された、鳩山氏が「ペテン師だ」と激怒したのは当然である。首相は四国八十八ヶ所巡りの途中で、次は「延命寺」だと云う。白衣に同行二人と書いても、弘法大師は一緒に付いて来られまい。「死して屍拾う者なし」となり、餓鬼道に落ちることになるだろう。
 「こんな人をいつまでも首相の座に置いておくわけにはいかない」どころではなく「大人、いや、人間としてあるまじき態度である」なのだ。このような狂った人間を、首相として、いや、国会議員としてのうのうと生かしている日本人の一人であることが恥ずかしい。

菅首相記者会見
不信任案否決後の記者会見

「明日への遺言」

明日への遺言ポスター

 3月1日に公開となり、話題になっていた映画「明日への遺言」が、近くの映画館では今日が最終上映となるので、朝食を早めに済ませて見に行った。つくばエクスプレスが開通してできた柏の葉キャンパス駅前の、「ららぽーと柏の葉」内にあるMOVIXというシネプレックスである。

 太平洋戦争の末期には、米国海軍はサイパン、グアム、テニアンなどを占領し、日本本土は米軍の制空圏に入った。そして、東京を始めほとんどの都市への無差別爆撃が行われた。それに対して、日本軍は最後のあがきとも云われるような抵抗を試みていた。映画「明日への遺言」は昭和20年5月の名古屋北部への無差別爆撃の最中、日本軍が撃墜したB29から、パラシュートを使って脱出し、日本軍の捕虜となった乗員27名を、斬首刑にしたことで、戦後、B級戦犯として起訴され、軍事裁判にかけられた、岡田資(たすく)陸軍中将の法廷記録映画である。
 この映画に登場するシーンはほとんどが、法廷の中と拘置所内である。しかし、上映時間2時間はしっかりと中身が詰まっており、一寸たりとも気を抜ける部分が無いほど充実した内容であった。被告と弁護人、検察官、裁判員の緊迫した審問と堂々たる弁駁(べんばく)は見応えのあるシーンになっていた。岡田中将は被告人として法廷に臨むにあたって、この裁判を「法争」と位置づけ、戦争には負けたけれども、この裁判では勝ってみせると決意していた。米海軍の行ったB29による無差別爆撃と戦闘機による機銃掃射は、民間人まで殺戮対象とした、国際法違反であることを認めさせようとしたのである。そして、捕虜を殺戮したのは報復ではなく、国際法に則った処刑であるとし、全責任は東海軍管区司令官として判決を下した自分にあり、刑を執行した部下たちは、その命令に従っただけである。自分はこの裁判でどんな判決を受けても構わないが、部下に対しては刑を軽くしてもらいたいと、嘆願するのであった。最後には、岡田中将は「市ヶ谷のA級戦犯をはじめ、他のB、C級戦犯の裁判においては、自分たちのように充分に発言する機会は与えられなかった。この点における寛大な処置を感謝したい」と申し述べ、敵味方の差別無く弁護人として弁護に最大の努力をつくすフェザーストン法学博士や検察官として罪を問いただしながら、少しずつ岡田中将に傾いていったバーネット検事、それに真摯に意見を聞いてくれた裁判員たちに感謝の礼を捧げている。1948年5月に判決が下され、岡田中将は絞首刑を言い渡された。19名の部下に対しては、終身刑から、最も軽いもので10年の懲役を宣告された。後に部下たちの刑は大幅に減刑されている。
 この映画で感銘を受けるのは、岡田中将の堂々たる弁駁と、自分に全責任があるとして、部下をかばう軍人らしい態度、フェザーストン博士の献身的な弁護やバーネット検事の同情、裁判員の公平で真摯な態度、それに岡田中将の家族たちの思いやりのある表情である。この裁判に比べて、東京裁判での公平性の欠如や、東条英機をはじめとしたA級戦犯たちの卑屈さは、それが国民を戦争に駆り立てた責任者の態度かと情けなく思えてならない。潔く刑に従うことをよしとするのは当たり前である。インドのパール判事のように「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」に対して、何故、堂々と論駁しなかったのかと思う。
 
 とくに意識して観たわけではないが、私は最近、大東亜戦争、太平洋戦争に関わる映画やテレビを観ている。2月末に、「母べえ」、3月10日にTBS「シリーズ激動の昭和20年3月10東京大空襲 語られなかった33枚の真実」、3月17、18日に日本テレビ「東京大空襲」を観た。米軍による日本本土空襲は昭和19年11月に開始されているが、当初はヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によるもので、軍需工場や製油所に対するピンポイント爆撃である。ハンセル准将は無差別爆撃は民間人まで殺戮する非人道的なものであると考えていた。それを手ぬるいとしてハンセルは罷免され、翌年1月に交代したカーチス・E・ルメイ少将は、家屋や鉄道、道路などすべてを焼き尽くす低空飛行で投下する焼夷弾による無差別爆撃を立案し、その最初の候補地として東京の下町が選ばれた。最も被害の大きかったのが昭和20年3月10日の東京大空襲である。死亡者の数は10万人を超えている。二度の爆撃を行っているが、最初の爆撃で避難するであろうという地帯を作って、さらに二度目の爆撃でそこを爆撃している。明らかに大量殺戮を狙った攻撃である。いろんな種類の焼夷弾を使っているが、後にヴェトナム戦争で問題となったクラスター爆弾まで使っている。死亡者の多くが黒焦げになって誰かもわからない死体になり、行方不明者の数が数万人規模まで達しているのがそれを物語っている。広島、長崎の原爆投下による死者は立派な慰霊碑が建てられているが、東京大空襲による死者に対しては、慰霊碑すら建てられていない。これは戦後、米国に対しての批判と取られてはいけないという為政者の卑屈さから来ている。それどころか、大量殺人を犯したカーチス・E・ルメイに対して佐藤栄作内閣は勲一等旭日大綬章まで贈っている。理由は「日本の航空自衛隊を育てた」ということらしい。
 戦後まもなく教育を受けた私の年代はフランクリン・ルーズベルト大統領を、ニューディール政策による世界恐慌からの建て直しや、国際連合の設立基盤の構築などを行った偉大な大統領と教わったが、彼こそ、日本を太平洋戦争に駆り立て、日系米国人の強制収容、有色人種、とくに日本人への敵対的差別の第一人者で、親中、親ソの容共主義者であったことを忘れてはならない。ルーズベルトは1945年4月に急死し、副大統領であった凡庸な政治家と云われるトルーマンが大統領に就任するが、もし、ルーズベルトが終戦時に生きていたら、日本はどうなっていたかわからない。ポツダム宣言はトルーマンのもとで、ソ連抜きで書かれている。
 映画「明日への遺言」の中で無差別爆撃は国際法違反であるとする岡田中将に対して、バーネット検事は、「処罰された捕虜たちも命令に従って爆撃したのであり、それを命令した者は裁かれるべきだというのか。それが誰だと思うか?」と問いただしている。それに対して、「それを指摘するのは検察側の仕事だ」と答えながら、法廷にかざってあるルーズベルト大統領の写真を見るシーンがある。1951年のサンフランシスコ講和条約で日米の戦争状態の終結が宣言され、東京裁判でパール判事が指摘した、「戦勝国が一方的に敗戦国を裁くことの公平性の欠如」も、日本側があえて受け入れ、条約を受諾している。

1995年1月17日 阪神淡路大震災

 この頃、前の年からスタートした、ある電機メーカーの一事業部での業務改革プロジェクトに入っていた。毎週、2~3日間だけ、お客様のプロジェクトメンバーと一緒になって、業務改革の素案を作る作業である。我々の会社からは、東京にオフィスを持つ私と大阪にオフィスを持つNさん、それに名古屋のAさんの三人が入っていた。
 この週の月曜日、16日は前の日が成人の日と日曜日が重なったために休日になっており、私は16日の夕方から大阪の京橋にあるホテルに宿泊していた。17日と18日に作業をする予定だった。
 17日未明、突如として大きな揺れに目を覚まされた。ベッドに座っているのもやっとのような感じだった。すぐそばにあるテレビのスイッチを入れた。私の記憶では、NHK大阪放送局の仮眠室の二段ベッドから飛び起きてくる職員のシーンが写しだされ、字幕で「ただいま淡路島北部を震源とする大きな地震が発生しました。」というテロップが流されていた。まもなく、アナウンサーの顔が映し出され、第一声が発せられた。「ただいま第一報が届きました。午前5時45分頃、近畿地方を中心として強い地震がありました。震度6が神戸・・・」というものであった。余震が何度かあって、私が泊まっていたホテルの14階の揺れはずいぶん大きく感じた。起きてもしかたがないので、またベッドに入った。
 朝、7時頃起きて、テレビを見たら、ずっと地震のニュースが続いている。NHK神戸放送局の映像が出て、すごい揺れで机や棚の上のものが落ちて、四散している状況が写し出されていた。同じ内容が繰り返し放送されていたが、少しずつ現場の映像や、ヘリコプターからの映像も届いてきていた。ホテルから六甲山とその裾に帯状に横たわる神戸市が遠くに見える。神戸市はいろんな所で火災が発生し、煙があちこちに立ち昇っている。ところどころで炎がでているのが見えた。時間が経つうちに神戸市内の様子がわかってきた。ホテルのすぐそばを走っているはずの、環状線の電車も動いていなかった。お客様の会社に行こうにも、電車がすべて止まっている。同じホテルに泊まっていると思っていた、名古屋のAさんはいない。10時頃に大阪のNさんに電話をしたら、彼はこれから、神戸に住んでいるお母さんを自分の家に連れてくると云っていた。その日は何もせずに、ずっとテレビと窓から見える神戸市の煙の状況を見ていた。上空には何機ものヘリコプターが飛んでいた。夜になると火事の炎がよく見える。新たに火災が発生する様子も見える。翌日もお客様の会社は休みとなり、仕事は木曜と金曜日になった。金曜まで新幹線は大阪京都間は徐行運転をしていた。出張から我家に戻ったのは土曜日になった。
 今年の1月は阪神淡路大震災から13年になる。毎年、1月17日に追悼式が行われている。追悼式は被害を受けたいろんなところで行われるが、その模様をテレビで見ていたら、小学校の朝礼でおこなわれている追悼式で、一人の女の子が校長先生のお話を聞きながら、ポロポロ涙を流して泣いている。小学3年生くらいの女の子である。震災のときはまだ生まれてもいないはずだ。ご両親も元気だと想像できるのだが、震災の経験を何度も聞かされているのであろう。私も胸が打たれ、もらい泣きしそうになった。ずいぶん感受性の強い子だと思った。いつまでも優しい気持ちを持ち続けて欲しい。
 1月21日の産経新聞の投書欄「談話室」に「阪神・淡路大震災から13年がたった。当時、『無人のスーパーから物を盗む人がいないとは、日本とは何と安全な国だ』と他国から驚きの声があったと聞き、自国を少し誇りに思ったものだ。しかし、・・・・」という投書が載っていた。私も同感であるが、もう一度、あのときの状況を確かめてみたくなって、“YouTube”のいろんなビデオ映像を見た。あの当時の放送では公開されていなかったいろんな映像が蓄積されていた。テレビではかなり表面的な内容しか放映していないが、現場の生々しい映像がたくさんあった。火事場泥棒的な盗難もあったようだが、やむにやまれぬようなもののようである。それ以上にパニックが起こっていないことに感心させられた。消防隊や警察、一部の自衛隊と、近隣の人たちの救命活動が整然と行われたことである。震災発生当日は神戸市内への道路が封鎖されて、自動車での進入ができなかったことが大きかったと思う。報道関係のヘリコプターがたくさん飛んでいるのに、消火や救助のためのヘリコプターが飛んでいないのも問題である。救援活動で最初にヘリコプターが飛んだのが、ダイエーやセブン・イレブンの救援物資の運搬であり、暴力団山口組や宗教団体の救助活動も行われたようである。当時の政府は村山社会党内閣で、自衛隊の大量派遣をずいぶん渋っていたようだ。憲法違反と言っていた自衛隊が活躍してくれることは望まなかったのかもしれない。
 翌日から、交通封鎖は解かれたが、マスコミやボランティア、それに家族や親類を助けに来た人たちで一杯になった。他県からの消防隊や警察などの応援もあって、秩序は保たれていたようである。

阪神大震災とは関係ないのだが、1月21日の産経新聞の同じ紙面に、16年前の「朝の詩」欄に載せられた『娘』という詩が再掲載されていた。再掲載を依頼した読者は手帳にこの詩をいつも挟んでいて、この詩を読むと心が洗われるという。小学校の追悼式で涙を流して泣く女の子のように、私も他人の不幸や痛みを自分のものとして、悲しみ嘆く人間であり続けたいと思う。

朝の詩「娘」

「菊水」

菱田春草「菊慈童」

 先週、割烹「きくすい」へ行った。このときの話を書こうと思っていたが、それはまたの話にする。

前に書いた「紅葉狩り」を書いているとき、観世流の謡本を読んでいると、「恥ずかしながらも袂に縋り(たもとにすがり)留むれば、・・・・・、所は山路の菊の酒なにかは苦しかるべき・・・・・」という謡が出てくる。紅葉に袂にすがられて、維茂が引き返して酒宴に加わる場である。ここで、はて、「菊の酒」とはいかなる酒かと訳注を見れば「菊水の酒」とある。

「菊水」については、広辞苑を調べると、中国の故事で「ある川の崖にある菊の露が川にしたたり落ちて、その水を飲めば長生きする」という⇒菊慈童(きくじどう)とある。もう一つは「紋所の名、楠木氏の家紋として名高い」となっている。確かに楠木正成の家紋や旗印は菊水の紋である。
古語辞典を見てみると、
きくすゐ[菊水]—-「菊のしたみづ」。菊の下を流れる水、これを飲めば長生きするという。

いずれにせよ、菊の花を浸した酒を飲めば長生きをするという言い伝えから、重陽の節句(旧暦9月9日:菊の節句)に菊酒を飲むことと深く関係しているようだ。

「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 芭蕉

「山川の菊のしたみづいかなれば ながれて人の老いをせくらむ」 新古今和歌集717 藤原興風

など、数多くの歌が残っている。

謡曲「紅葉狩」に出てきた「菊の酒」は山中で飲んだ酒で中国の故事「菊慈童」に例えており、七五調の韻を踏むために、「菊の酒」としたものと思われる。

「菊水」の出てくる「菊慈童」というのは「紅葉狩」と同じく謡曲である。能の流派によっては「枕慈童」とも云っている。
「菊慈童」は謡曲としては短い謡で1000文字程度である。是非とも原文を読んで謡曲の雰囲気をあじわっていただきたい。観世流の謡を要約すると以下のようなものである。

『酈縣山(れっけんざん)という山の麓から薬水が涌き出たという噂を聞きつけた魏の文帝は、臣下を遣わし、その源を見てくるよう命じた。
 勅命を受けた臣下が山に入ると山奥に庵があり、中から異様な姿の童子が現れた。
 このような狐狼野干(ころうやかん)の住むようなところに何者かと問うと、周の穆王(ぼくおう)に仕えていた慈童だと答えた。周の時代といえば、魏よりも数代以上も前になる。七百年も昔の者がどうして今まで生きているのかと怪しむと、慈童は却ってその事実に驚く。この山に配流となった身であったが、穆王より賜わった枕には二句の偈(げ:韻文の形で記した経文)がしるされており、その偈を菊の葉に書き写したところ、その葉に置く露が滴り流れて、不老不死の霊薬となった。その水を飲みつづけていたため、七百歳を生きていると云う。
 慈童は菊水の流れを汲み、勅使に勧め、自らも飲みはじめる。菊水はいかに飲んでも尽きない酒で、やがて酔い伏してしまうが、目覚めた時、七百歳の寿命を文帝に捧げると、また仙家へと帰っていった。』

この「菊慈童」という謡曲の題材は「太平記」巻13「龍馬進奏の事」に由ったもので、太平記の中では次のように記述されている。

『昔、周の穆王のとき、穆王は8頭の天馬を持っていた。王はこれらの馬に乗って、あらゆる所に出かけた。そして、あるとき、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)で法華を説く釈迦に会うことが出来た。穆王は仏の道に深く帰依して、釈迦より八句の偈(げ)を授けられた。このことはずっと王の心の中に秘して、世に伝えることはなかった。
 この頃、穆王は慈童という童子を寵愛し常に傍らに侍らせていた。
 あるとき、穆王が留守のときに、慈童が誤って王の枕の上を跨いでしまった。群臣が合議して「このような罪は決して浅くはない。本来ならば死罪にあたいするが、誤ってしたことであるから、流罪とする」と決定して、王に奏上した。王はやむなく慈童を障モ縣山に流した。この酈縣山は都より300里、山深くして鳥も鳴かない。雲が蔽い、虎狼が群生するような所で、この山に入った者が生きて帰ったことはないと云われていた。
 穆王は慈童を哀れに思い、釈尊より授けられた八句の偈(げ)のうち普門品(ふもんぼん)にある二句の偈を、ひそかに慈童に授け、「毎朝、十方を一礼して、この経文を唱えなさい」と教えた。
 慈童は酈縣山の深山幽谷に流されるが、王の言い付けを守り、毎朝、授けられた経文を唱えるようになった。また、もし、忘れるようなことがあってはならないと思い、傍らにあった菊の葉にこの経文を書き付けておいた。
 あとで、この菊の葉に置いた露が、わずかに落ち、流れる谷の水に滴って、その水がすべて天の霊薬と変った。慈童が喉が渇いて、その水を飲んでみると、味は甘露のごとく、何物よりも美味しかった。さらに天人が花を捧げに来、鬼神が手を束ねて奉仕するようになった。かくして虎狼悪獣の恐れも無くなり、慈童は羽が生えて仙人に変った。
 加えて、この谷の水が下流に流れ、そのあたりに住む三百余りの家々の住民たちまで病が治り、不老不死と云われるまで長寿となった。
 その後、時代が代わり、八百数余年後も慈童はなお少年そのままの姿を保ち、老いることもなかった。そして、魏の文帝のときに彭祖(ほうそ)と名を替えて、この術を文帝に授けた。文帝はこれを受けて菊花の盃(さかづき)を伝えて、万年の寿を祝った。今の重陽の宴はこの故事に由来している。』

「菊水」というのは新潟の酒にもあるし、京都の祇園祭に使われる鉾にも「菊水鉾」というのがある。いずれも、この菊慈童の話を由来としている。

菊水の紋
   菊水の紋