「あさが来た」講演会

 第三回の食べ歩きの会は手賀沼湖畔のイタリア料理店「ジュリエッタ」で開かれました。
 同時に、村上さんの講演も行われました。演題は『NHK朝ドラ「あさが来た」よもやま話』です。講師の要望で、「ちいき新聞」、我孫子版に掲載された内容を一部を省いて、紹介します。

———–激動の時代を生きたヒロイン・広岡浅子————

家業を立て直し銀行設立に奔走
 幕末の1849(嘉永2)年、浅子は京都の豪商出水三井家当主の4女として生まれた。側室の子といわれ母の名は不明だが、広大な屋敷で育ち、木登りや相撲を取るおてんば少女だった。
 「商家に学問は不要」という習慣に反抗、甥たちが学ぶ四書五経に耳を傾けた。 
  16才で大阪の豪商加島屋の二男広岡新五郎と結婚した浅子は家業のためひそかに簿記算術を習い、倒産を救ったことも。そして炭鉱業に着目し「広炭商店」を開店、筑豊の炭鉱開発に着手、ピストルをしのばせ現場指揮をしたエピソードは有名である。その後、両替商加島屋の名の再興を懸け、1888(明治21)年加島銀行を設立した。

市川房江、村岡花子ら女子教育に尽力
 浅子は「女子教育」に情熱を持つ成瀬仁蔵に出会い、商売で得た利益を女子大創設の支援に還元することを快諾。早稲田大学を創設した大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一ら政財界の巨頭と交渉、三井家から東京、目白台の土地が寄贈され、日本女子大が誕生した。
 浅子の大きな功績の一つに大同生命の創業も挙げられる。また、若い女性を相手に御殿場の夏期勉強会を主催し、市川房江(婦人参政権運動の旗手)、村岡花子(「赤毛のアン」の翻訳家)らを育てた。70才で死去した際の追悼式では大隈重信が弔辞を読んだ。

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 この新聞記事には出てきませんが、NHK朝ドラ「あさが来た」は原案として1987年発刊の古川智映子作『小説 土佐堀川』が使われています。カバー表紙には「女性実業家、広岡浅子の生涯」という副題が付いています。大筋は朝ドラとほぼ同じですが、古川さんが『小説 土佐堀川』を執筆した動機は、明治期に活躍した女性を主人公にした小説を書きたいという思いが強く、1980年に復刻版として発刊された『大日本女性人名辞書』を調べ、広岡浅子を見出したそうです。「ピストルを懐に炭鉱に乗り込んだ」がすごい。「九転び十起き」というドラマティックな人生を送った女性だったのです。

 開催日 4月24日  執筆:村上、鶴 

今年最後の飲み会

高円寺の名曲喫茶へ行ったあと、新宿の喫茶店「らんぶる」から今晩行く予定のスペイン料理店に予約を入れようと電話したら、すでに満席だとの応えだった。待ち合わせが、その店で6時半である。すでに6時を過ぎていた。あわてて携帯に入っているイタリアレストランに電話したが、ここも7時半から予約が入っていて満席になると云う。とりあえず、一緒に食事する二人に連絡し、新宿駅東口交番前で落合うことにした。

交番前はものすごい人だかりだった。いつもはこんな光景ではないが、年末の夕方6時半で、仕事納めの人もたくさんいるのだろう。私たちも今年最後の飲み会で他人のことは云えない。

年末のこの時期は、都心はどこも混んでいる。レストランは飲み会で一杯だし、デパートやスーパーはお正月の買い物で混雑する。新幹線や飛行機、道路は帰省客や海外でお正月を過ごす人でごった返す。例年、私は暮れのこの時期は伊豆半島の温泉に行く。クリスマスと29日の間だ。ほんの少しずらせば旅館も道路もがら空きになる。しかも、富士山の景色が一番綺麗な時期である。

私は故郷が九州で、帰るのに片道24時間かかる。それでも、大学生時代や、就職後も独身時代は年末は帰省せざるをえなかった。お正月の三が日はどこも休みで、食事をするところもなかった。今はファミリーレストランやコンビニは勿論、スーパーが元日でも開いているので、食事に困ることがない。生活面での理由もあるが、それ以上に私が帰ることを心待ちにしていた両親がいたからである。何にも益して、自分の元気な姿を見せることが最大の親孝行だったのである。いつも、混んだ列車に乗って帰るのに苦労した。今だと新幹線や飛行機が使える。特急列車やましてや急行列車で帰る人は少ないだろう。
私の父親は商売をやっていたので、大晦日になると夜遅くまで集金に駆け回っていた。父が帰るまで待って、夜11時頃に一緒に家のすぐ前のガソリンスタンドでスクーター(ラビット)を洗うのが私の仕事だった。仕入先の集金人さんも、父の帰りを待っていた。その頃まで、日本の商売の締めが「盆暮れ」と云って、お盆か年末に支払うのが普通で、一時金は払っても、残りは掛けで商売が成り立っていたのである。なかには手形で払うお客さんもいたが、クレジットカードは勿論、銀行振込みなどが無かったから、年の暮れになると集金に駆けずり回る忙しさだったようだ。父は家に帰ってから、深夜に床屋に行った。その頃は大晦日になると床屋さんは徹夜で営業していた。
元旦になると、みんな晴れ着を着て、まずは神棚にお参りして、歳をとり、その年が幸せであるようにお祈りした。そのあと、近くの神社に初詣に行った。小さい頃は写真屋さんで記念写真を撮ってもらった。カメラなど一般家庭には無かったから、写真を撮ってもらうのはお正月やどこか旅行したときに蛇腹の付いた写真機で撮ってもらうくらいだった。
今はテレビでお正月番組をやり、それでお正月の気分になるが、その当時はテレビは無かったが、今よりはるかにお正月らしかった。

新宿東口の交番前で6時半を少し過ぎた頃、携帯に入れていた電話番号でトルコ料理の「イスタンブール」の席が取れた。まもなく3人が集まったので「イスタンブール」に行った。ほとんど予約で埋まっていた。
8時頃からベリーダンスが始まった。この店は何度も来ているが、いつもは早い時間に店を出るので、ベリーダンスショーを見るのは初めてである。お客さんまで巻き込んで賑やかなショーだった。

イヤーエンドイルミネーション
イヤーエンドイルミネーション

佐賀の酒と料理

きくすい  きくすいの店内
 
 昨晩、W君と一緒に町屋の小さな割烹に行った。いつもは船橋で、スパニッシュやタイ料理を食べてワインを飲むのだが、W君の「たまには佐賀の酒を飲もうよ」ということで彼がネットで探してくれたのが、町屋と渋谷の店で、どちらも駅から遠そう。町屋だったら、駅までは千代田線で比較的近い。ネットで調べたら駅から10分と書いてあったが、速足で10分程度。いつもウォーキングをしているのでこの位の距離はとくに問題はない。路地裏に入って少し行くと店の明かりが見えた。店の名前は割烹「きくすい」という。外見もこじんまりとしていて綺麗だが、中に入ったらすごく立派な店で靴を脱いで一段上の床に上がろうとしたら、そのままでどうぞと言う。若くてよか男の旦那と別嬪の奥さんが迎えてくれた。ずいぶん歩いたと言ったら、「どちらからいらっしゃったんですか」と聞くので「佐賀から」と冗談を言って「なかなかよか店ね、佐賀ん人のよう来んさんね?」と佐賀弁を使ったら、あちらも佐賀弁で応えてくれた。
 酒は「窓の梅」がメインのようだが、他にも「天山」や「東一」などの佐賀の酒や焼酎も飲めるという。昨晩は「窓の梅」の本醸造をぬる燗で飲んだ。家の近所の料理屋でよく飲む辛口の日本酒より喉越しがすっきりとして旨いし、丁度良いぬる燗だ。料理も刺身が新鮮だし、がん漬けも出してくれた。我々二人とも酒は強いので、源右衛門のさかずきでずいぶん飲んだ。料理の器も源右衛門を中心に有田焼で揃えている。
 佐賀では「三右衛門」と呼ばれる陶磁器のブランドがあるが、通常は酒井田柿右衛門、今泉今右衛門、それと唐津焼の中里太郎右衛門を「三右衛門」と称している。但し、唐津焼は有田焼とは異なり陶器であるため、磁器のブランドとして太郎右衛門の代わりに館林源右衛門を「三右衛門」とすることも多い。
 この店のご主人は佐賀県武雄市の出身で、武雄温泉の話も出た。やはり佐賀県では嬉野温泉が有名だが最近は武雄温泉も賑やかさを取り戻しているという。佐賀北高校のエース、久保君は武雄から通っているそうだ。佐賀北高校を母校としているW君と私が一緒になると当然のことながらあの優勝を勝ち取ったときの感動を分かち合うことになる。ご主人、奥さんともに気さくで穏やかな人たちで佐賀や佐賀北高の話で盛り上がった。それと、もう一つは「佐賀のがばいばあちゃん」の話である。私はこの本に登場する小学校と中学校を卒業している。この小説の主人公は中学校を卒業して野球推薦で広島の広陵高校に進学している。
 ご主人や奥さんと佐賀弁を混ぜながらの会話も心地良い。店が綺麗で酒も料理も旨い。駅からいささか遠いのが難点ではあるが、何度でも行きたい店である。

今年初めての定例食事会

 新宿で今年初めての定例食事会を開いた。いつもはO君と二人で飲んで食べるのだが、今回は昔から職場の仲間が憧れてた女性Mさんが一緒になった。彼女は辛いタイ料理が苦手ということでベトナム料理にした。いつもよく行く  Hoi An に行った。いつも応対してくれるウエイトレスの女の子二人がいなくてなんとなく融通が利かない。
 それでも、食事は極めてヘルシーで美味しかった。Mさんもすっかり気に入ってくれた。

 新宿に行く前に、上野東照宮の冬牡丹祭りを見てきた。まだ芽だけしか出ていない春牡丹の間に蓑を被った寒牡丹がたくさん咲いていた。春の牡丹は数が多いだけにすばらしいと思う。

冬ぼたん展カンバン 寒ぼたん