
テレビ朝日『点と線』ポスター
11月24、25日にテレビ朝日で放映された、松本清張の『点と線』の録画を見た。2日間、正味4時間の番組であったが、テレビドラマとしては、まれにみる秀作となっていた。
テレビ朝日開局50周年記念番組として銘打っているだけあって、極めて丁寧に製作されており、出演俳優も豪華キャストと云えるような布陣であった。
設定は昭和32年となっており、その頃の服装や、電気製品、新聞、雑誌、看板、建物などが実に木目細かく忠実に描かれている。この時期は私より古い年代の人たちが、みんな知っているのだから、ごまかしがきかない。当時の思い出もあって、ずいぶん細かいところまで興味深く見せてもらった。
『点と線』は松本清張のヒット作で、清張はこのあと続々と長編推理小説を世に送り出している。それまでの横溝正史や江戸川乱歩などの探偵ものとは一線を画した社会派推理小説を確立したと云ってもよい。私は、この小説を読んだ後、ずっと推理小説のとりこになってしまった。私だけではなく、この本がベストセラーになったあと、時刻表を買う人が増え、関連した本がたくさん売れるという、時刻表ブームまで起こっている。
テレビドラマ『点と線』では、たかだか260ページ程度の普通の文庫本のストーリーに正味4時間もの時間をかけている。普通は、この程度の推理小説では2時間で済ますところをその倍の時間を使っている。推理小説をテレビドラマ化して、その情景描写を綿密に入れると、そのくらいの時間はかける必要があると思う。この小説のもっともキーとなるアリバイ作りが東京駅でのシーンである。13番線から15番線に停車している特急「あさかぜ」を見ることができるのがたった4分しかないという、この情況を再現するために多くのコストをかけてセットを作ったという。
小説『点と線』とテレビドラマとはかなり違っているところもあるが、現代の視点で作られたテレビドラマが小説を補っているところが多かったと思う。たとえば、小説では福岡市の香椎海岸で一組の男女が死体で発見されたときの情景描写を、テレビでは被疑者の妻が同人誌に投稿した随筆の中に入れて、被疑者に土地勘のあることと、なぜ香椎海岸でなければならなかったかを説明している。また、東京駅でたった4分間の間に13番線ホームに目撃者をつれて行くのはそれほど難しくないが、同じ4分間の間に被害者の男女を15番線ホームにいかにして立たせるかという設定は実は小説にはない。文庫本の「解説」ではそれが指摘されているが、テレビでは、やや弱いもののなんとかカバーしている。小説でもテレビでもおかしいのは、男女の死体が発見されたとき、男性の衣服のポケットから出てくる食堂車の領収書が一名となっている点を老刑事が怪しむことである。しかも、一週間も前から福岡の旅館に男性が一人で宿泊していたことが翌日に判明している。この時点で、二人が別々に福岡に来たと考えるのが自然であって、食堂車の領収書が一名となっているのは不思議でもなんでもない。二人が同じ「あさかぜ」に乗ったことを目撃した証人が現れるのはそのあとのことである。東京駅での4分間がなければこの小説そのものがちっとも面白くなくなる。その4分間に二人を目撃するシーンが小説の最初に出てきて、そのすぐあとに、死体発見の場面があるため、作家が勘違いしてしまったのではないかと思う。
小説を映像化するときに、どの程度原典に忠実に従うかが問題となる。今回のテレビドラマでは主役が博多東署の鳥飼刑事になっていて東京や秋田にまで出張している。小説では彼は福岡を一歩も出ず、福岡、札幌、鎌倉はすべて警視庁捜査二課の三原警部補ひとりでの捜査になっている。本来ならば警察官一人での単独捜査というものは許されない。しかも事件が発生した所轄所の刑事がほとんど動かないというのも変である。テレビドラマとしての主張があって、現代風にアレンジしたものと思う。
文字で書かれたものをテレビドラマ化した場合、どうしても映像化できず、ナレーションに頼らざるをえない部分がでてくる。そうすると、ストーリーがわかりにくくなり、視聴者には緊張を強いることになる。むしろ、原典とは少し異なっても、視聴者に理解しやすくしてくれた方がよい。その点でも、今回のテレビドラマ化は非常に優れたものといえよう。このあと、松本清張シリーズを続けていただけるのなら、他の小説もこのくらいの丁寧さでドラマ化してくれたらと願っている。
この小説は昭和32年に書かれている。西暦1957年だから、丁度50年前だ。私が中学生のころである。今と大きく違っているのは、長距離交通手段かもしれない。刑事たちは東京と博多を何度も列車で行き来しているが、いつも4人向かい合わせのボックス席に座っている。数年後ではあるが、私も学生時代は九州に帰郷するのに「雲仙」や「西海」などの急行列車を使った。ドラマと同じように4人ボックス席で座って寝るか、席が取れないときは、通路に新聞紙を敷いて寝たものである。ボックス席で一夜を明かすのは、結構つらい。私が就職したころには、「あさかぜ」や「さくら」、「はやぶさ」などの夜行寝台列車を使った。その当時はB寝台と呼ばれるようになっていたが、3段ベッドで横幅も普通の座席より少し広い程度でずいぶん窮屈であった。
ここで気づくことであるが、「飛行機を使うという発想はその当時はほとんど無かったのか?」ということである。小説の中でも同じであるが、その発想、一発でアリバイが崩れ始める。他の細心なアリバイ工作のわりには、あまりにも単純で唐突な崩れ方である。あとは、結果を三原警部補から鳥飼刑事への手紙の中で種明かしをしている。この小説の最大の欠点はそれであっさりと終ってしまうことなのだと思う。
そういう多少の欠点はあっても、この小説の価値が失われるわけではない。それまでの推理小説は探偵小説が中心で、密室殺人を代表とした、犯人が仕掛けたトリックを名探偵がろくに捜査もせず頭の中だけで解決してしまうというのがほとんどだったのである。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、アガサ・クリスティのエルキュール・ポワロ、横溝正史の金田一耕助、江戸川乱歩の明智小五郎などの名探偵はなつかしい名前だ。実に巧妙なトリックを使った事件を見事に解き明かしてくれる。彼らの小説もずいぶん読んだが、この頃の探偵小説は、ある狭い場所での出来事、いわば点しか扱っていない。それに対して『点と線』は福岡から札幌までの全国レベルでの出来事をあつかっている。題名どおり、点と点を線でむすぶことをやっている。これは、後に書かれる『時間の習俗』で時間レベルにまで拡大される。ぬかりのないアリバイづくりと、それを一歩一歩崩していく推理小説の展開はこの小説で確立されたと云ってもよい。
もう一つの特徴は、犯人が自殺することにより、もっと「わるいやつら」はぬくぬくと生き残るという筋立てである。社会派推理小説というジャンルはこの小説のあとも、清張ものは勿論、森村誠一や西村京太郎のトラベル・ミステリー、内田康夫の浅見光彦シリーズなど最近の推理小説にも引き継がれている。
推理小説が実際の犯罪捜査と異なるのは、犯人の綿密なアリバイづくりがあるところだろう。それをいかに崩していくかが面白いところである。ただし、問題なのはほとんどが状況証拠でしかない。結局、自白か犯人の自殺という結末になってしまうのだ。
私の悪い癖かもかもしれないが、一旦、ある作家の作品を読んで気に入ると、その作家の作品を片っ端から読む癖がある。知らない作家の作品を読んで裏切られたくないからだと思う。
松本清張の作品は、『点と線』のあと『眼の壁』、『蒼い描点』、『黄色い風土』、『ゼロの焦点』、『時間の習俗』・・・・『Dの複合』など本格推理小説はほとんど読みつくしてしまっている。
清張が長編推理小説から古代史やノンフィクションものへと移る頃からは、別の分野の小説を読むようになった。
この『点と線』などの初期の清張作品は、ほとんど高校時代に貸し本屋で借りて読んだ。清張は最近の作家のように多作ではない。次の作品がでるまでの間に、黒岩重吾や高木彬光などの作品も読んだ。現在は内田康夫の作品ばかりで、そろそろ文庫本は読みつくしてしまいそうになっている。