黒皮の手帖 (拐帯行)

以前に松本清張原作の「黒川の手帖」、武井咲主演版についてブログに書きましたが、その前の米倉涼子版で続編がドラマ化されたので、同じように武井咲主演の続編がドラマ化されることを期待していました。それが、「黒革の手帳」(拐帯行)として放映されました。
「黒皮の手帖」本編で、主役の原口元子が検察から恐喝・横領罪で逮捕されるところで終わったのですが、「拐帯行」では3年の刑期を終えて、スーパーのパートとして働き始めるところからスタートします。
マスクをして、人目につかないようにしますが、楢林クリニックの看護師長、中岡市子に見つかってしまいます。
元、銀座のクラブのママをやっていたわけで、その美貌は隠し切れないことがわかって、どこか遠いところへ行こうと決めた所が、金沢です。
ただ、金沢に行ってもビルメンテナンスの仕事中に『上星ゼミナール』理事長、橋田常雄に見つかってしまいます。橋田からは銀座でしつこくからまれていたのですが、彼も金沢の経営者、神代グループのCEO、神代周吾にアプローチしていたのです。橋田から神代を紹介されて、元子は神代配下の高級クラブ『アルテローズ』に入ります。そしてその美貌はたちまち評判となり、神代の引きもあって、数か月でそのクラブのママになってしまいます。

このドラマで登場する、もう一人のキーパーソンが、森村隆志です。森村の父が経営する喫茶店が神代に潰され、母も危篤で間もなくなくなります。
森村は神代グループの得意先名簿をパソコンから盗み出しますが、売っても大した金にならず、元子の店で、最も高い酒をくれと言うのですが、元子から「その程度の金では神代はビクともしない」と言われます。そこからは元子と森村がタッグを組んで、神代の愛人を騙して、料亭に連れ出し、その店のオーナーに元子がなりすまし、森村が不動産屋に扮して、3億円で売りたいと話しかける。その愛人は神代にそのお金を払ってほしいとねだり、神代は税金対策と称して額縁の裏に隠していた3億円を愛人に渡します。
騙し取った3億円をスーツケースに入れて元子がクラブに戻ったところを、橋田が来てそれを奪い取ろうとしますが、森村が橋田を花瓶(?)で殴り、元子と一緒に海辺の旅館に逃げます。 夕日の沈む海辺で、森村と元子は仲良く散歩する佐藤夫妻と逢って、夕食を共にするまで仲良くなります。
旅館に戻った森村は新聞で橋田が殺されたことを知り、自分が殺人犯だと思い込みます。翌朝、警察が、旅館に来たのを知った、森村は、元子と一緒に旅館の崖に面したテラスに逃げて、一緒にそこから身を投げて死のうと云いますが、元子は「死ぬのはいつでもできる。でも、死んだらそれで終わりよ」と諭され、一緒に玄関まで行くのですが、警察に捕まったのは佐藤夫妻であった。
佐藤夫妻も息子の医大受験で、橋田に800万円を騙し取られていたのです。佐藤が橋田に、それを返してくれとつめ寄った弾みに、ビール瓶で殴りつけ、それが死因となったのでした。

ドクターX

『これは一匹狼の女医の話である。
 大学病院の医局は弱体化し、医者のヒエラルキーは崩壊、命のやり取りをする医療も、ついに弱肉強食の時代に突入した。
 その危機的な医療現場に現れたのが「フリーランス」すなわち一匹狼のドクターである。
 例えばこの女、群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、専門医のライセンスと叩き上げのスキルだけが彼女の武器だ。
 外科医、大門未知子またの名を「ドクターX」。』

 2012年からテレビ朝日がシリーズで放映している医療ドラマ「ドクターX~外科医大門未知子」のナレーションである。昨年まで、4回にわたってテレビ化され、各回、9~11の独立したエピソードが挿入されている。今年も10月12日からシリーズ5として毎週放映される予定になっている。各エピソードは1時間。
 テレビでシリーズとして放映されているのは、「水戸黄門」や「遠山の金さん」などで、今年は配役が替わるが、毎週、同じ時間帯に放送され、ストーリーは、ワンパターンで、それでも、見終わってからすっきりするので誰からも人気がある。現代劇でも、「踊る大走査線」や「相棒」などがある。
 テレビ化されたと書いたが、原作は無く、脚本家が創作している。脚本家もシリーズによって交替している。
 私はこれまで、このドラマの存在を知らなかったし、友達との会話にも出てこなかった。知ったのはAmazonのプライムビデオに入っており、無料で何度も見ることができ、たくさんあるテレビドラマの中でも人気のあるシリーズだったからである。BGMも少し良質なイヤフォンを使うと素晴らしいサラウンドで聞くことができる。

「ドクターX」はどこの医局にも属しておらず、大学病院などに派遣され、神業にも近い腕を持ち、不可能と思える手術(オペ)をも敢然と行い、すべてを成功させるフリーランスの医者で、症例報告も論文も出さない。そのかわり、金銭には汚く、高額の報酬を要求する。本名はわかっていない。以上、ドラマの中で米国の雑誌に紹介されているが、ドラマではドクターX=大門未知子として扱っている。大門未知子はお金に汚くもなく、神原名医紹介所に属しており、所長の神原晶(あきら)には父が残した借金を払っている。
 大門未知子は特技「手術」、趣味「手術」と称して、外科手術以外は踊ること、食べること、麻雀が大好きで、まったくの世間知らずで医師免許が無くてもできることには一切関心がない。相手が誰であろうと歯に衣着せぬ物言いと態度で接する。その代わり、患者には親切で、病院内では、院長や教授などの権威を全く無視する。味方は同じ紹介所に属する麻酔科医の城之内博美だけである。なお、麻酔科医というのは現実的にも、他の病院から依頼され、所属する医局から派遣されて手術に参加することがしばしばあるようだ。
 ストーリーはエピソード毎に異なるが、未知子は他の外科医が不可能と思われるオペも完璧、スピーディに処理するが、その功績は院長以下、誰からも認められず、他の医師が執刀したかの如く扱われる。それでも、手術して、完治すれば満足する。オペを引き受けるときは「わたし失敗しないので」、論文執筆や院長回診など断るときは「いたしません」の一言でバッサリとやってしまい、反感を買う。
「ドクターX」とは誰か、ドラマでは明かされないが、未知子の師として彼女から慕われる神原晶のようである。未知子にさえアドバイスするほどの知識と経験を持つが、医師免許を剥奪されている。マネージャーとして、未知子や城之内の報酬を集金するのが主な仕事で、毎回高額だということも、「ドクターX」であることを裏付けている。「水戸黄門」が決して切られたりしないのと同じく、決して失敗しない大門未知子のオペシーンも安心して見られることが、20%の高視聴率を保つ理由なのかもしれない。

 配役は大門未知子を米倉涼子、城之内博美を内田有紀、神原晶を岸部一徳が演じている。院長や教授たち、いわば悪役を伊藤四朗、西田敏行などが演じているが、第三シリーズでは院長役を北大路欣也が演じており、公正な役柄で未知子にも理解を示す。
 このドラマを見て、最初に惹かれたのは米倉涼子の魅力、スタイルの良さである。スラリとして超ミニスカートをまとった生足の長さは、さすが、15年のクラシックバレーの経験、ファッションモデルの経験がものを言っている。
 麻酔科医の城之内博美役の内田有紀もファッションモデルを経験しており、カッコ良く、米倉涼子の良い引き立て役になっている。西田敏行のイメージはどうしても「釣りバカ日誌」の浜ちゃん役から抜けきれないし、新「釣りバカ日誌」ではスーさん役で、彼のキャラは相変わらずのイメージが強い。


エンディングタイトル

黒革の手帳

 珍しく、松本清張原作の小説をテレビで見た。最近は清張の小説がたびたび放映されている。今年は清張没後25周年だからかもしれない。
松本清張といえば、私が中学生の頃から、「点と線」「眼の壁」「ゼロの焦点」など多くの推理小説を読んでいた。テレビが無い頃で、貸本屋から借りて読んだ。ほとんどが光文社のカッパノベルスだった。
その頃は、長編推理小説が好きで、短編小説はあまり好きではなかった。読んで後味の悪い小説では「霧の旗」がある。これに似た小説が今回テレビで見た「黒革の手帳」である。何度もテレビ化されているが、今回は武井咲が主人公、原口元子を演じている。2004年の米倉涼子主演版と、ストーリーはほぼ同じである。
原作とは時代がかなり違っているのでストーリーの展開も異なる。原作の原口元子は34歳程度だが、武井咲は23歳、銀座で最も若いママと言われている。武井咲はすごい美人で、私が好きな女優の一人であるが、原作の主人公はどちらかといえばブス。床を同じくする安島が原作では敵で、テレビでは味方。第8話まであるが、最後はあっさりと二人とも検察に拘束されて、幕切れになる。この展開では、多分、米倉涼子バージョンと同じく、続編があると期待している。
原作は清張らしく、緻密な情景描写やストーリー展開だが、推理小説ではない。ピカレスク小説(悪漢小説)という分野で、小悪漢が大悪漢に立ち向かっていくのが大筋になっている。やくざ映画みたいなものだ。シリーズ物の一話である。テレビは武井咲の美しさやファッションを売り物にしていると思う。また、「清張史上最強の悪女」としているが、原作では、小悪魔が巨悪のグループの罠に引っ罹り、自滅していくというのに近い。もし、その通りであれば、武井咲ファンの私に言わせると可愛そうとしか思えない。
武井咲05 武井咲09
武井咲14 武井咲13
武井咲11 武井咲04
武井咲15 武井咲16

Dinner Show with Hula

<p><iframe width=”560″ height=”315″ src=”https://www.youtube.com/embed/YNjecGOZF50?si=eOKuBTShEiQqMXqw&amp;start=21″ title=”YouTube video player” frameborder=”0″ allow=”accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share” referrerpolicy=”strict-origin-when-cross-origin” allowfullscreen></iframe></p>

女房の姉さんと、姉さんの教え子のSさんと三人で目白にあるホテルのBanquet Roomで催されたDinner Showに出席した。ここのホテルは山縣有朋が築庭し、現在では宴会場として使われている椿山荘の一部になっている。庭が綺麗で待ち時間の間、散策して、写真を沢山撮ってあげた。
Showの催し物はHulaで、女房が所属している団体が主催していて、ハワイからもプロのバンドとダンサーが招かれていた。生徒たちのダンスが中心ではあったが、プロのダンサーの踊りは見ごたえがあった。
とくに、男性のHulaはキレがあって楽しい。

ベリーダンスを堪能する

今年は私が大学を卒業してから45年になる。大学では卒後45年の交友を中心にして、大学祭に招かれる。この行事を「Homecoming day」と呼んでいる。招待状の中に現住所を大学が把握していない同期卒業生の名簿が同封されていて、私と同じ研究室出身の I 君の名前があった。私は彼の電話番号を知っていたので、彼に、大学に通知して良いかどうかを確認して、了解を得たので、大学にメールした。I 君とは本当に40年ぶりの会話で、近いうちに飲みに行こうと彼を誘った。先週、I 君から電話がかかって来たので、さっそく彼にも都合の良い新宿で会うことにした。彼はトルコ料理なるものを食したことが無いと言っていたし、私もここしばらくトルコ料理を味わっていなかったので、ボスポラスハサン新宿店を予約した。
トルコ料理は世界三大料理と言われているが、美味しいのはケバブ、日本ではシシカバブと言う場合もあるが羊肉を使った串焼きのようなものである。ワインを飲みながら、ゆっくりとお互いの近況や、昔の思い出ばなしで時間はあっという間に過ぎて、今日、私が最も期待していたベリーダンスが始まった。この店では毎週水金土の夜8時頃からショーが始まる。
前もってビデオでベリーダンスを撮影すると断り、良い席を取ってくれるように頼んでおいたので、踊るスペースの正面の一等席が確保できた。まさに踊り子の振るヴェールが私の顔に掛かりそうな席である。スタイルの良い美しいダンサーの香しい匂いも届いてくる。
通常のビデオカメラだと望遠側にシフトしていて、焦点距離が最短で40mm以上になる。劇場の最後方の席の後ろから三脚を立てて撮影するのには向いているが、近距離の撮影にはワイコン(Wide Conversion Lens)を着けないと無理な距離である。私が持参したカメラはSONYのDSC-HX5V、コンパクトデジカメではあるが、ハイビジョンビデオカメラにもなる。焦点距離は最短25mmの10倍ズームレンズでこのような場所では最適なカメラである。片手で持って、ショーを見ながら撮影したが、強力な手ぶれ補正でちらつきもなく、踊り子の動きに追随しながら撮影ができた。オートフォーカスのピントも良く合っている。
ベリーダンスと云えば、トルコ料理店のイメージが強いが、インド料理店でもやっているようだ。もともと、エジプトが発祥地で、古代エジプトの壁画にも描かれている。トルコからアラビア半島などのアラブ文化圏で発展したダンスで、西洋では「オリエンタルダンス」と呼ばれている。クラシック音楽が好きな私にはリムスキー・コルサコフの「シェラザード」をイメージさせるが、さらに、「千夜一夜物語」を連想させる。
日本にもベリーダンスを教える教室はたくさん有るようだが、この踊りはかなり腰やお腹、さらに肩や胸の筋肉を使うので女性の健康法には最適かもしれない。ただ、年配の方にはやや無理がありそうだ。
今晩のダンサーもトルコの女性で普段は頭からヴェールを纏っているような、エキゾティックな女性で、魅力的なマスクと身体つきである。踊っている女性のすぐそばで見ている時間は、本当に幸せな瞬間であった。ヴェールを懸けてもらった I 君はもっと良かったのかもしれない。
ビデオも、これまでのベリーダンスを撮影した作品よりかなりうまく撮れたと思っている。早速、編集してYouTubeに投稿した。

「武士の一分」

武士の一分 壇れい

久し振りに、しっとりと落ち着いた映画を見た。山田洋次監督の「武士の一分」である。ストーリーとしてはこじんまりとしているが、藤沢周平原作の短編小説集「隠し剣秋風抄」の中の『「盲目剣谺返し(こだまかえし)』をじっくりと煮込んで秀作としている。

海坂藩の下級武士、三村新之丞は愛する妻と共に、慎ましくも楽しく暮らしている。新之丞は毒味役という役目を仰せつかい、主君が食するものを事前に試食する役であった。ある日、この地でとれる赤灰貝という貝を食べて気分が悪くなる。主君が食する前に倒れたので、主君は無事で済んだが、しかし、新之丞は数日間、高熱を出し、失明してしまう。絶望の淵に立つ夫が扶持を失わずに済むよう、妻の加世は助力を得ようとして、「なんとかご家老にお願いしてあげよう」と励ましてくれた上士、島田藤弥に頼みこむ。そして、交換条件として加世は島田に身を弄(もてあそ)ばれる。やがてそれは新之丞の知るところとなり、加世は離別されてしまう。そして、新之丞は全く目の見えない身体で、武士の一分を賭けて、真陰流の達人、島田藤弥に真剣勝負を挑む。新之丞も腕はたつが、相手の気配だけを頼りに立ち向かう。島田は風に吹かれる枯葉の音に隠れて、納屋の後ろにまわり、気配を隠して納屋の屋根の上から切りつけてくる。鋭い殺気を感じた新之丞が剣を背中越しに抱えて、振り払うと、バサッと音がして枯葉の上に島田が倒れる。島田は腕に深手を負い、命は助かるが、自宅に戻って自害して果てる。盲目の身となった新之丞が島田ほどの使い手に勝負して勝てると思われることもなく、とがめだてはない。主君は自分たちが何事もなく、安穏に暮らせるのも新之丞のおかげであるとして、新之丞を生涯、同じ扶持で召抱える。島田の口利きのおかげではなかった。やがて、中間(ちゅうげん)の徳平の勧めで飯炊き女が雇われる。舌になじんだ味、もう一度食べたかった蕨たたきだ。行く先もなく、しばらくの間、徳平が預かっていた、加世であった。

この映画は藤沢周平の短編小説をもとに作られているが、原作は文庫本40頁程度である。映画を見たあとにこの小説を読んだが、一時間もかからずに読んでしまった。映画では正味2時間をかけている。
前に「点と線」の記事を書いたが、小説は文庫本260頁に対して、4時間のテレビドラマにしている。誰にでもわかりやすくしようとするとテレビや映画は充分な時間をかけた作品にしなければならない。最近のミステリードラマは間をはしょりすぎて、ストーリーがまるでわからなくなるものが多い。つい最近見た内田康夫の「天河伝説殺人事件」も原作は550頁ほどあるが、それを、コマーシャルまで入れて2時間ものに仕立てるなど、ストーリーがあまりにも単純化されていて、まるで面白くない。

時代劇では、「水戸黄門」などは勿論、何分冊にもなっている大仏次郎の「鞍馬天狗」や野村胡堂の「銭形平次捕物控」もテレビや映画では原作からは完全に遊離しているものが多い。
そういう意味では映画が作りだした傑作は「座頭市」かもしれない。勝新太郎主演で十数本もの映画が作られている。この「座頭市」の原作にあたる小説は子母沢寛の作品であるが、原稿用紙4枚程度である。この極めて短い小説の中に映画の道具立てはほとんど揃っているのである。そのさわりだけを紹介しよう。

「天保の頃、下総、飯岡の助五郎のところに座頭市という盲目の子分がいた。頭を剃ってでっぷりとした男で、柄の長い脇差をさして歩いていた。盲目だけにものすごく感がよく、博打場で壺振りの賽の目を百発百中で当てた。
しかも、この男は盲目でありながら、抜刀術居合いの腕は凄いもので、小さい桶のようなものを誰かに投げさせてそれが落ちてくる途中でキーンと鍔鳴りがして、桶は真っ二つになって地上に落ちる。市の刀はその間にちゃんと鞘におさまっていて、市はにやにやしている。こんな訳だから助五郎の子分たちは市には一目もニ目もおいていて、市が出てくるとどんな喧嘩も収まった。」

こういう筋書きで、座頭市の強さを表現している。少し違うとすれば、仕込み杖が長脇差になっている程度で、あとはいくらでも脚色することができる。飯岡の助五郎と云えば「天保水滸伝」では悪役になるが、主人公は笹川の重蔵、それに平手造酒が登場する。三波春夫の「利根ェの~利根の川風よしきりの・・・・・『止めて下さるな妙心殿・・・・』・・・」である。

映画「武士の一分」は藤沢周平の「隠し剣秋風抄」の中の『盲目剣谺返し』という短編小説を映画化したものである。
もう一つの「隠し剣弧影抄」とともに隠し剣、いわゆる?秘剣?を扱っている。小説の中では新之丞は木部道場で免許を受け、秘剣?谺返し?を受け継ぐと目されていた。
盲目となっても、周りを飛ぶ羽虫を木刀で打ち落とすほどの腕前と書かれている。そして、島田を討った一撃が?谺返し?かとさとる。そして、もう二度と使うこともあるまいと思うのである。
しかし、山田洋次監督は新之亟を秘剣の使い手として、特別扱いはしていない。ただ、木部道場で授けられた、「倶(とも)ニ死スルヲ以テ、心ト為ス。勝ハ厥(そ)ノ中ニ在リ」と「必死スナワチ生クルナリ」の言葉を心に念じて戦うのである。映画では下級武士の夫婦愛と、夫を愛するがゆえに自分がどうなっても、さらに夫に成敗されてもよしとして身を投げ出す妻、加世の懸命な姿を描いている。加世役の壇れいさんはそそとした中に凛とした武士の妻を好演していて美しい。

『点と線』

テレビ朝日『点と線』ポスター
テレビ朝日『点と線』ポスター

11月24、25日にテレビ朝日で放映された、松本清張の『点と線』の録画を見た。2日間、正味4時間の番組であったが、テレビドラマとしては、まれにみる秀作となっていた。

テレビ朝日開局50周年記念番組として銘打っているだけあって、極めて丁寧に製作されており、出演俳優も豪華キャストと云えるような布陣であった。
設定は昭和32年となっており、その頃の服装や、電気製品、新聞、雑誌、看板、建物などが実に木目細かく忠実に描かれている。この時期は私より古い年代の人たちが、みんな知っているのだから、ごまかしがきかない。当時の思い出もあって、ずいぶん細かいところまで興味深く見せてもらった。

『点と線』は松本清張のヒット作で、清張はこのあと続々と長編推理小説を世に送り出している。それまでの横溝正史や江戸川乱歩などの探偵ものとは一線を画した社会派推理小説を確立したと云ってもよい。私は、この小説を読んだ後、ずっと推理小説のとりこになってしまった。私だけではなく、この本がベストセラーになったあと、時刻表を買う人が増え、関連した本がたくさん売れるという、時刻表ブームまで起こっている。

テレビドラマ『点と線』では、たかだか260ページ程度の普通の文庫本のストーリーに正味4時間もの時間をかけている。普通は、この程度の推理小説では2時間で済ますところをその倍の時間を使っている。推理小説をテレビドラマ化して、その情景描写を綿密に入れると、そのくらいの時間はかける必要があると思う。この小説のもっともキーとなるアリバイ作りが東京駅でのシーンである。13番線から15番線に停車している特急「あさかぜ」を見ることができるのがたった4分しかないという、この情況を再現するために多くのコストをかけてセットを作ったという。
小説『点と線』とテレビドラマとはかなり違っているところもあるが、現代の視点で作られたテレビドラマが小説を補っているところが多かったと思う。たとえば、小説では福岡市の香椎海岸で一組の男女が死体で発見されたときの情景描写を、テレビでは被疑者の妻が同人誌に投稿した随筆の中に入れて、被疑者に土地勘のあることと、なぜ香椎海岸でなければならなかったかを説明している。また、東京駅でたった4分間の間に13番線ホームに目撃者をつれて行くのはそれほど難しくないが、同じ4分間の間に被害者の男女を15番線ホームにいかにして立たせるかという設定は実は小説にはない。文庫本の「解説」ではそれが指摘されているが、テレビでは、やや弱いもののなんとかカバーしている。小説でもテレビでもおかしいのは、男女の死体が発見されたとき、男性の衣服のポケットから出てくる食堂車の領収書が一名となっている点を老刑事が怪しむことである。しかも、一週間も前から福岡の旅館に男性が一人で宿泊していたことが翌日に判明している。この時点で、二人が別々に福岡に来たと考えるのが自然であって、食堂車の領収書が一名となっているのは不思議でもなんでもない。二人が同じ「あさかぜ」に乗ったことを目撃した証人が現れるのはそのあとのことである。東京駅での4分間がなければこの小説そのものがちっとも面白くなくなる。その4分間に二人を目撃するシーンが小説の最初に出てきて、そのすぐあとに、死体発見の場面があるため、作家が勘違いしてしまったのではないかと思う。

小説を映像化するときに、どの程度原典に忠実に従うかが問題となる。今回のテレビドラマでは主役が博多東署の鳥飼刑事になっていて東京や秋田にまで出張している。小説では彼は福岡を一歩も出ず、福岡、札幌、鎌倉はすべて警視庁捜査二課の三原警部補ひとりでの捜査になっている。本来ならば警察官一人での単独捜査というものは許されない。しかも事件が発生した所轄所の刑事がほとんど動かないというのも変である。テレビドラマとしての主張があって、現代風にアレンジしたものと思う。
文字で書かれたものをテレビドラマ化した場合、どうしても映像化できず、ナレーションに頼らざるをえない部分がでてくる。そうすると、ストーリーがわかりにくくなり、視聴者には緊張を強いることになる。むしろ、原典とは少し異なっても、視聴者に理解しやすくしてくれた方がよい。その点でも、今回のテレビドラマ化は非常に優れたものといえよう。このあと、松本清張シリーズを続けていただけるのなら、他の小説もこのくらいの丁寧さでドラマ化してくれたらと願っている。

この小説は昭和32年に書かれている。西暦1957年だから、丁度50年前だ。私が中学生のころである。今と大きく違っているのは、長距離交通手段かもしれない。刑事たちは東京と博多を何度も列車で行き来しているが、いつも4人向かい合わせのボックス席に座っている。数年後ではあるが、私も学生時代は九州に帰郷するのに「雲仙」や「西海」などの急行列車を使った。ドラマと同じように4人ボックス席で座って寝るか、席が取れないときは、通路に新聞紙を敷いて寝たものである。ボックス席で一夜を明かすのは、結構つらい。私が就職したころには、「あさかぜ」や「さくら」、「はやぶさ」などの夜行寝台列車を使った。その当時はB寝台と呼ばれるようになっていたが、3段ベッドで横幅も普通の座席より少し広い程度でずいぶん窮屈であった。
ここで気づくことであるが、「飛行機を使うという発想はその当時はほとんど無かったのか?」ということである。小説の中でも同じであるが、その発想、一発でアリバイが崩れ始める。他の細心なアリバイ工作のわりには、あまりにも単純で唐突な崩れ方である。あとは、結果を三原警部補から鳥飼刑事への手紙の中で種明かしをしている。この小説の最大の欠点はそれであっさりと終ってしまうことなのだと思う。

そういう多少の欠点はあっても、この小説の価値が失われるわけではない。それまでの推理小説は探偵小説が中心で、密室殺人を代表とした、犯人が仕掛けたトリックを名探偵がろくに捜査もせず頭の中だけで解決してしまうというのがほとんどだったのである。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、アガサ・クリスティのエルキュール・ポワロ、横溝正史の金田一耕助、江戸川乱歩の明智小五郎などの名探偵はなつかしい名前だ。実に巧妙なトリックを使った事件を見事に解き明かしてくれる。彼らの小説もずいぶん読んだが、この頃の探偵小説は、ある狭い場所での出来事、いわば点しか扱っていない。それに対して『点と線』は福岡から札幌までの全国レベルでの出来事をあつかっている。題名どおり、点と点を線でむすぶことをやっている。これは、後に書かれる『時間の習俗』で時間レベルにまで拡大される。ぬかりのないアリバイづくりと、それを一歩一歩崩していく推理小説の展開はこの小説で確立されたと云ってもよい。

もう一つの特徴は、犯人が自殺することにより、もっと「わるいやつら」はぬくぬくと生き残るという筋立てである。社会派推理小説というジャンルはこの小説のあとも、清張ものは勿論、森村誠一や西村京太郎のトラベル・ミステリー、内田康夫の浅見光彦シリーズなど最近の推理小説にも引き継がれている。
推理小説が実際の犯罪捜査と異なるのは、犯人の綿密なアリバイづくりがあるところだろう。それをいかに崩していくかが面白いところである。ただし、問題なのはほとんどが状況証拠でしかない。結局、自白か犯人の自殺という結末になってしまうのだ。

私の悪い癖かもかもしれないが、一旦、ある作家の作品を読んで気に入ると、その作家の作品を片っ端から読む癖がある。知らない作家の作品を読んで裏切られたくないからだと思う。
松本清張の作品は、『点と線』のあと『眼の壁』、『蒼い描点』、『黄色い風土』、『ゼロの焦点』、『時間の習俗』・・・・『Dの複合』など本格推理小説はほとんど読みつくしてしまっている。
清張が長編推理小説から古代史やノンフィクションものへと移る頃からは、別の分野の小説を読むようになった。

この『点と線』などの初期の清張作品は、ほとんど高校時代に貸し本屋で借りて読んだ。清張は最近の作家のように多作ではない。次の作品がでるまでの間に、黒岩重吾や高木彬光などの作品も読んだ。現在は内田康夫の作品ばかりで、そろそろ文庫本は読みつくしてしまいそうになっている。 

「フラガール」

 土曜日の夜、テレビで「フラガール」を放映した。地デジでは初めてだと言っていた。丁度NOVAの送別会で見れないので録画しておいた。昨年10月に映画を見て感動したので、DVDが欲しいところであった。
 ストーリーは常磐ハワイアンセンターが設立されるときの実話をもとにしている。昭和40年の話であるが、エネルギーが石炭から石油にかわり炭鉱が閉山の危機にあえいでいた。昭和30年代の初期は黒いダイヤと呼ばれるほど石炭産業は全盛を極めていた。工業化の波でエネルギー源として石炭は最も重要とされていたのである。ところが、蒸気機関車からディーゼルカーや電車の時代になり、さらに鉄道から自動車の時代に変わるにつれ、石炭が石油に取って代わられるようになった。

 常磐炭鉱は現在の福島県いわき市に存在する全国的にも有名な炭鉱であった。首都圏にも近く多くの炭鉱夫を抱えていたが、時代の流れには勝てず閉鎖の危機にさらされていた。少しでも多くの従業員を救うための一つの案として、一大プロジェクトが進められていた。それが常夏の楽園、ハワイをテーマとしたレジャーランドの設立である。従業員は炭鉱の従業員とその家族から採用しようというものだった。幸いにも、炭鉱としては弊害となっていた地下から湧き出す温水が豊富にある。それを利用して、温泉を中心とした、椰子の木などの熱帯植物の生育が可能なレジャー施設、すなわち常磐ハワイアンセンターの設立であった。

 レジャーランドとしてはただ単に温泉や熱帯植物園では物足りない。そこで、ハワイをイメージした常磐ハワイアンセンターの目玉として考えられたのが、フラを中心としたハワイアンダンスショーだったのである。
当時、フラダンスを日本人がやるというのはかなりの抵抗があった。しかも、ダンサーは常磐炭鉱の従業員の娘たちでなければならない。これがこの映画を面白くしているところであるが、実際にあった話である。

 東京から一人の女性がハワイアンダンスを教育するために招聘された。もとSKD(松竹歌劇団)でダンサーとして活躍していた平山まどかさん(実在:映画では松雪泰子が好演)である。
 まずダンサー候補生の募集から始まり、基礎からの訓練、合宿生活と厳しい練習が始まった。炭住(炭鉱住宅)に住む親たちからの反対、成果が見え始めてからの協力のもとで生徒たちは着実に成長していく。
そして、ハワイアンセンターのオープンを向かえ、大成功のもとにこのプロジェクトは完了する。

 映画のシーンでの圧巻は最後のセンターオープン時のフラガールたちのすばらしいハワイアンショウのシーンである。主役の蒼井優の熱演である。よくぞあそこまですごい踊りができたものだと思うほどであった。フラでもいきなり後ろに倒れ、しばらくしてむくむくと手もつかずに起きてくる技術は高等技術だ。どのダンサーも若いとは言え、腰の動きがすばらしい。衣装も通常のフラとは違い、タヒチアンダンスが中心となっていて、動きの速い、きらびやかな踊りとなっている。

 私が最初に常磐ハワイアンセンターでハワイアンダンスを観たのは昭和41年の秋である。大学を卒業して就職した会社の最初の職場旅行だった。常磐ハワイアンセンターが設立後間もない頃である。確かに炭鉱夫の娘たちがフラダンスを踊るというのが売り文句だったことを記憶している。映画に出てくるぼた山や炭住は私が育った佐賀県でも小さい頃はたくさんあった。ぼた山は今は緑に覆われ、すっかりその面影はなくなっている。

 この常磐ハワイアンセンター、現在では大きな宿泊施設もできて名称もスパリゾートハワイアンズに変わってはいるがこの5~6年でも何度か宿泊している。去年、今年は混んでいるかもしれないが、また行ってみたくなった

「どんど晴れ」

4月から始まったNHKの連続テレビ小説「どんど晴れ」もめでたしめでたしで終りましたね。

ほとんど欠かさず見てましたが、盛岡の市内がほとんど出てこなかったような気がする。

連続テレビ小説、いわゆる朝ドラは毎朝放送されるので、私のような時間に縛られない人間には生活を規則正しくしてくれる良い番組だと思っている。