ゴーストタウン

 久しぶりの帰郷である。福岡空港に午後3時頃に着いた。空港には従弟が迎えに来てくれていた。彼とは45年ぶりの再会である。最後に会ったとき、彼はまだ小学生で、叔母の家に行くと、いつも海や川で遊んであげた。その日は叔母の家でご馳走になり、車で送ってもらい、薬院のホテルに泊まった。
 翌日、バスで佐賀へ向った。佐賀は私の生まれ育った町である。バスを降りて、駅前通りを真直ぐに南に下った。この通りには小さな事務所や金融機関の支店が多く、喫茶店やレストランが点在している。昔からある懐かしい商店も目に付いた。

 さらに下って、県庁前に行く通りから左にそれ、昔の佐賀の中心となっていた商店街に入った。どこの町にもある「・・・銀座」と云われた街である。天気の良い昼前というのに、アーケードがあって商店街全体が気味悪いほど薄暗くなっている。人通りが無く、ほとんどの店がシャッターを下ろし明かりも無い。高校生の頃よく通った佐賀では最も大きな本屋さんがあった。そこだけは開いていたが、ガラス戸で入りにくくなっている。中を覘くと、店員さんが一人カウンターに立っていて、お客はひとりもいない。
 昔は、この商店街から松原神社の前あたりまでアーケードのある商店街が続いていた。おもちゃ屋さんや、カバン屋さん、呉服屋さん、メガネ屋さん、お菓子屋さんなど、多くの店が並び、賑わっていた。
 数年前まであった、「窓の梅」という食料品店も無くなっている。昔、デパートのあった場所には、奇妙なことに、昭和30年代に上映された映画の、ペンキで描かれた大きな看板がいくつか掲げられていた。その前に乾物のようなものを売っている、雨戸一枚程度の露店があった。お客はだれもいない。この商店街を通る人がまるでいないのである。

 佐賀には福岡から長崎に行く国道34号線が走っていて、その沿線に官公庁が並び、佐賀神社や公会堂、図書館、体育館などの文化施設もその道路沿いにあった。通称、貫通道路と云っていたが、福岡や大牟田から長崎、佐世保に行く大きな道路はその道しかなく、まさに佐賀市を貫通していた。この道路沿いの店もほとんどがシャッターを閉めているか、保険会社の支店や小さな事務所のようなものに変っていた。私が生まれ育った家も、その道路に面し、父が商売をやっていた。近所の店もほとんどが無くなっていたが、隣の仏具屋さん、数軒先の衣料品店、薬局、それに向いにあったガソリンスタンドだけが残っていた。

 昭和40年頃のエネルギー革命とその後の自動車の普及によって、この貫通道路が手狭になり、市の北辺と南部にバイパスが出来たのが、佐賀市のドーナツ化現象のきっかけになった。それまで佐賀市内を通過していた車が旧市街地を通らなくなったのは良いが、それとともに、バイパス沿いの田圃だった土地が開発され、土地価格の安い新しい住宅地に人口が集まるようになった。さらに、大きな駐車場を備えた大型ショッピングモールが出来て、買い物客の足がそこに向うようになってしまった。駐車場のスペースが無く、小さな地域を地権者で分け合うそれまでの商店街は衰退の一路を歩むしか仕方がなかったのだ。

 現在の佐賀市の中心街は、城内と呼ばれる佐賀城を囲む内堀の中にあり、官公庁や公共施設、学校などが新しい建物になってそのまま存在している。佐賀城址も、それまであった私が通った小学校が移転し、そのあとに佐賀城本丸歴史館ができて、佐賀観光の中心になりつつある。この歴史館は佐賀鍋島藩の佐賀城本丸御殿を復元した木造建築で私が小学生の頃、「お居の間」と呼んでいた藩主の居室も材料はそのまま使われて再建されている。明治維新後の佐賀の乱で焼け残った「鯱の門」とも調和して佐賀のシンボル的な存在になりそうである。歴史館の隣には県立博物館・美術館が建てられていて、佐賀の歴史や自然、文化を知ることができる。それに、場所としては少し離れているが、今回初めて知った佐賀市歴史民俗館もレトロな雰囲気が残り、写真に撮っておきたい場所である。ここは明治時代に建てられ、その後、見向きもされなかった旧古賀銀行の建物やその近くの古い住居が観光地として公開され、周りの静かな環境とともに別世界に来たような気にさせられる。
 佐賀市内には中心となる商店街は無くなったけれど、文化的な中心地が蘇ってきている。私が小さいときからフナ釣りをして親しんだ内堀の周りがきれいに整備され、満々と湛えた堀の水も空の青を映して美しかった。

佐賀城歴史観鯱の門佐賀城内堀佐賀歴史民俗館

嵐山と太秦 (2008年旅行の続き)

仁和寺から嵐山までは京福電鉄を使う。途中乗り換える必要はあるが、終点が嵐山である。嵐山の駅を出ると観光客で賑わっていた。お土産屋さんもたくさんあるし、人力車がたむろして、客待ちしていた。次に観たいお寺として目指していた天龍寺は駅のすぐ前である。ビデオを撮影していたら、いきなり、市長選挙の宣伝カーが通りすぎ、大きな声がまともにビデオに録音されてしまった。京都はどういうわけか、共産党が強いところらしい。

駅前の通りから天龍寺の境内に入ると静かになった。石畳の路をまっすぐ行くと、方丈に入る庫裡がある。龍安寺とは、同じ禅宗で宗派も同じ臨済宗のためか庫裡の格好もそっくりである。庫裡というのは、本来、台所の意味だが、禅宗では玄関を意味するようだ。庫裡の中に入ると正面の達磨さんの絵がこちらをにらんでいた。靴を脱いで、方丈の縁側に出ると大きい池を中心とした庭が広がっていた。その向こうには緑で覆われた高い築山がそびえていて、美しい景観を池に写している。この曹源池に面して、この寺で最も大きな建物である方丈にはいくつかの部屋があるが、中に入って座って池を見ると、良い景色だ。大きな一眼レフのデジカメを持ったおばちゃんに、「ここから撮ると良い写真が撮れますよ」と云うと「入っても良いのですか?」と聞くので「入ってはいけないとは書いてないから、大丈夫ですよ」と云ってやった。おばちゃんは部屋の中に入ってきて、さかんにシャッターを押していた。最近はカメラクラブが多いせいか、あまりカメラに似つかわしくないおばちゃんが大きな一眼レフカメラを持って写真を撮っている光景によくぶつかる。どうみても良い写真にはなりそうにないところを撮っているので、つい口を出してしまう。朝ドラ「ちりとてちん」に出てくるフリーライターの奈津子さんみたいな女性だと一眼レフカメラはよく似合うのだが。

天龍寺は南北朝時代に吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が、夢窓国師を開山として創建したお寺である。もともと、この地は後嵯峨上皇の仙洞御所があった所で、後醍醐天皇も幼少の頃、ここで過ごしている。この寺院を建立するための資金調達のために、夢窓国師は、「天龍寺船」による中国、明との貿易を進言している。夢窓国師は夢窓疎石とも呼ばれているが、西芳寺(苔寺)の開山でもあり、優れた作庭技術を持っていた。さらに、明との貿易である勘合貿易のきっかけまで作っているから、商才まであったと思われる。足利義満が、自分の死後、とっくに亡くなっている夢窓国師を金閣寺の開山にするように遺言したのも、勘合貿易によってもたらされた富によって、室町幕府が大いに栄えたからであろう。

方丈の中だったと思うが、足利尊氏の束帯姿の木像があった。最初に見たときは後醍醐天皇の像かと思ったが、そうではないらしい。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代の将軍であるが、後醍醐天皇を敵にまわしたために、明治以降は逆臣扱いを受けている。鎌倉幕府の北条氏を稲村ガ崎の戦いで打ち破った新田義貞や、湊川の合戦で足利軍と戦った楠木正成が忠臣として扱われているのに対して、尊氏は、歴史上、ずいぶん損な役割を演じている。
実際は鎌倉幕府の崩壊後に「建武の中興」という天皇親政の時代があり、その後に南朝と北朝に分裂、南北朝時代が始まる。尊氏は現在の天皇の祖である北朝側の臣下であり、後醍醐天皇の南朝とは対立していた。尊氏は決して、北朝の天皇をでっち上げたわけではない。鎌倉幕府の末期には、皇室が二派に分裂し、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につくことになっていたのである。建武の中興のときは、大覚寺統の後醍醐天皇による天皇親政となるが、鎌倉幕府を滅亡に追いやった豪族に対する恩賞に不満を持つ武士たちが反旗をひるがえし、持明院統の光明天皇を擁立する足利尊氏に従った。尊氏は後醍醐天皇側の新田義貞や北畠顕家、楠木正成と戦い、一度は敗北し、九州に逃れるが、西国の武将を募り、再度上京して、後醍醐朝廷軍に勝利したのである。後醍醐天皇は吉野に落ち延び南朝を打ち立てた後、南北朝時代に入る。南朝は50年程続き、足利義満の時代に衰退している。

鎌倉幕府の衰退から南北朝時代、室町時代初期までの戦乱を描いた物語として「太平記」がある。「平家物語」に比肩できるほどの軍記物語である。私は吉川英治の「私本太平記」を読んだことがあるが、戦後に育った私にとっては、それまで、あまり聞いたことの無かった話で、私の父がよく歌っていた「青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、木の下陰に駒止めて・・・」の楠木正成や、歴史では少し習ったけれど、あまり明確にされない足利尊氏や新田義貞が活躍するという興味深い物語であった。民主主義の戦後になっても、その頃の天皇や皇族がもろに生身の人間として描かれるため、長い間、映画になることも無かった。「太平記」は、昭和が終わり、平成3年にやっとテレビで大河ドラマとして放映された。「平家物語」に出てくる源義経に相当する人物が「太平記」にも登場する。若くて美男子と云われ、優れた公達武将であった北畠顕家である。顕家は公家の出であるが、後醍醐天皇の命により鎮守府将軍として奥州に出向いている間に、足利尊氏らが天皇に反旗を翻したので、急遽、京に向かい、新田義貞や楠木正成とともに、尊氏軍を打ち破っている。旗印は「孫子」から採った「風林火山」であった。武田信玄の専売特許ではない。テレビでは顕家役を後藤久美子が演じており、美しく凛々しい若武者であった。実際に、北畠顕家は京や鎌倉、奥州で何度もの歴戦を重ね、敗れることは無かったが、ついには疲労と怪我により徐々に兵力を喪失して、石津(堺付近)の戦いで討ち死にしている。享年21歳であった。顕家の子、北畠顕成は、後に村上師清を名乗り、この家系が戦国時代に村上水軍として発展する。

天龍寺を創建した足利尊氏の話から脱線して、「太平記」の世界にまで入ってしまったが、天龍寺は明との貿易まで行い資金を調達して建てられただけに、広大なお寺である。創建当時は今の嵐山の渡月橋あたりまで境内が広がっていたと云われている。曹源池の奥にある築山に登ると、京の町全体がよく見えた。今ではビルがたくさんあって、それほど景色は良くないが、当時は京を一望に収めることができたに違いない。

天龍寺を出て、嵐山の名物、渡月橋の映像を撮り、そのあと、京福電鉄で太秦の広隆寺へ向かった。

広隆寺は初めてで、弥勒菩薩の映像を撮りたかった。広隆寺は太秦広隆寺駅のすぐ前である。車も電車も通る道路に面している。「弥勒菩薩半跏思惟像」があまりにも有名で、「弥勒さんのお寺」、広隆寺が京都随一の古さを誇る寺院であることを忘れがちである。広隆寺は聖徳太子から賜った仏像、すなわち「弥勒菩薩半跏思惟像」を本尊として祀るために秦河勝が建立した寺である。この太秦の地は渡来人、秦一族が治めており、養蚕、機織などの大陸や朝鮮半島の先進文化の中心地であった。

境内の中は南大門の外から入ると急に静かになる。観光客がほとんどいない。目当ての「弥勒さん」は一体だけが本尊として納まっているのかと思ったら、新霊宝殿の中には他にも国宝級、重文級の仏像がたくさんあった。勿論、目当ての「弥勒さん」が中心に置かれているが、すぐ横に「弥勒菩薩半跏思惟像(百済伝来)」があったり、大きい仏像では阿弥陀如来坐像や不空羂索観音菩薩立像、十一面千手観音立像などがデンと納まっていた。それぞれが奈良の仏像にも対比できるような堂々たるものである。不空羂索観音菩薩立像は東大寺三月堂の不空羂索観音を連想させる見事なものだ。残念ながら撮影禁止でビデオどころか、静止画も撮影できなかった。

 広隆寺から、また京福電鉄で大宮まで行き、京都駅までバスに乗った。あとは新幹線でまっすぐに帰り、6時頃には東京へ着いた。
 この5日間の旅行は、日頃のことをすっかり忘れて楽しい思い出だけが残った。

冒頭で述べた、京都は共産党が強いらしいと書いたのは、3月7日の「産経新聞」のコラム『正論』に次のようなことが記してあり、市長選挙では共産党推薦の候補が敗れはしたものの、他政党すべてが推薦する当選者に僅差まで迫ったと書いてあったからである。論旨が面白いので、紹介する。
「日本人は南方から来た縄文人と北方から来た渡来人の混合した民族である。暖かい地方はバクテリアやウィルスなどの脅威にさらされるために、女は免疫力の強い男との子を生みたがる。だから、一夫多妻になり、あぶれる男も増える。いわば不平等の世界である。一方、寒い地方ではそういう脅威が無いので、一夫一妻になり、平等主義になる。平等主義になると批判精神が生まれてくる。京都は秦氏などの渡来人が開拓した土地で、その勢力は今でも残っているのであろう。批判精神に満ちた人の多い京都で共産党支持者が多いのはそのためである。」

「京都で共産党が強い理由」  弥勒菩薩半跏思惟像
京都で共産党が強い理由  弥勒菩薩半跏思惟像

金閣寺から竜安寺、仁和寺へ (2008年旅行の続き)

下鴨神社を出て、しばらく下鴨本通りをあがり北大路通へ出て金閣寺方面へのバスに乗った。金閣寺は京都の北西にあって、北東の銀閣寺とは対称の位置にある。どちらも、山荘として作られており、外観はあまり寺院の形態をなしていない。東山の北側にある銀閣寺は、花見によく行った蹴上から南禅寺、哲学の道のコースの終点で馴染みが深い。一方、金閣寺の方は観光バスで何度か来ているが、写真でいつも見ているせいか、実物としては、なんとなく印象がうすい。

 金閣寺に着くと、観光バスがたくさん来ていた。中に入るとたくさんの観光客がいて、いろんな国の言葉が飛び交っていた。久しぶりに見る金閣と鏡湖池の姿はやはり美しい。庭園と金閣のバランスが実にすばらしいのだ。この光景を見ると、外人の目では確かに、日本を「黄金の国」と云いたくなるかもしれない。ジパングを「黄金の国」と云ったマルコポーロは金閣が出来る100年ほど前の人で、金閣の姿を見ていない。彼が聞いた話は中尊寺の金色堂のことである。三階建ての黄金の家を見たら腰をぬかしたにちがいない。
10年ほど前の話だが、私が、発足したばかりの写真クラブに入ったとき、先生から、「これまで撮った写真で一番良いと思うのを持ってきなさい」と云われて、一緒に入った会員の一人が金閣寺の写真を持ってきた。池に綺麗にその姿を写している金閣の写真だった。それを見て、女の先生が「とても綺麗ね。まるで絵葉書みたい。」と云ったのを思い出した。金閣寺の写真を撮るのは極めて難しい。良い写真を撮ろうとすると、どうしても絵葉書みたいな写真になってしまう。だから、プロが撮った写真は、京都では珍しい雪が降り積もった時の写真とか、モノクロの写真になっている。庭園と金閣のそれぞれの美しさが一つの景観として溶け合い、みごとなまでに統一感のある鮮麗な美をつくりだしているのである。
金閣寺は室町幕府が最全盛の時代で、明との貿易で栄えた頃に三代将軍、足利義満が建てた山荘である。極楽浄土の世界を夢見て建てただけあって、その当時の贅を凝らして建てた、現代でも日本の代表的な建物である。三階建ての住居というのも珍しい。一階は寝殿造り、ニ階は書院造り、三階は唐風造りとなっている。窓や雨戸の形を見れば想像できる。義満は自分が死んだあとは、尊敬していた、夢窓国師を開山として寺とするように遺言している。義満の死後、その法号をとって、「鹿苑寺」と云う名前がつけられてた。
金閣以外にもいくつかの建物があるが、境内の中が、順に見て廻るコースになっていて、そのまま歩いて行くと、いつの間にか外に出てしまった。シーズンオフの今の時期でも観光客でずいぶん賑わっていた。

金閣寺を出て、バス停に行ったら、ちょうどバスが出たところで、次の龍安寺まで歩いた。立命館大学のわきの曲がりくねった路を歩いたが、結構な距離である。
龍安寺の山門を入り、鏡容池の右側の道を行き、そのあと石畳の参道を通って、階段を登ると禅寺風の庫裡に突き当たる。庫裡で靴を脱いで、縁側に出ると、写真でよくお目にかかる枯山水の石庭が目に飛び込んできた。青い目の外人客も多い。何人かは縁側に腰掛けて、庭を鑑賞している。15個の石が配置されていて、石の周りは苔で囲まれている。庭は低い土塀で囲まれているが、土塀の色と、砂利の白がうまくマッチしていて目をなごませる。
この石庭がこの寺ではあまりにも有名で、それしかないような印象を与えるが、この寺はかなり広く、水をたたえた鏡容池には、鴨や白鷺の姿が見えた。

龍安寺の次に仁和寺に向かった。歩いて行ったが、仁和寺に着いたのが夕方で、すでに門は閉まっていた。
翌日、ホテルからバスで再び仁和寺に行った。仁和寺は桜の時期に行ったことがあって、ちゃぼ桜の印象が強く残っている。この桜は御室の桜といわれ、背が小さい八重桜で4月の下旬に開花する。「ちゃぼ桜」というのは、ネットで調べても出てこない。私の勝手な呼び名なのかしらと思うけれど、自分がそれほど風流とも思えないし・・・・。
御室と呼ばれるのは、仁和4年(888年)に宇多天皇によって創建され、天皇が退位後、ここに住まれたからで、御室御所とも呼ばれている。明治維新までは皇子皇孫が門跡となっていたという。
仁和寺は法皇の住まいとして建立されただけあって、広大な敷地に宸殿、黒書院、白書院などの住居としての建物と金堂、五重塔などの寺院としての建築物が、場所を分けて配置されている。
仁和寺は私が学生の頃から馴染みが深い。多分、国語の教科書に引用されている、「徒然草」の五十二段から五十四段に登場する仁和寺の法師の話のためであろう。「方丈記」にも「養和の飢饉」の項に、仁和寺の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)の話が出てくる。「徒然草」が半ば滑稽な話としているのに対して、「方丈記」がかなりシリアスな話になっているのは、時代背景も違うし、作者の人生観が異なるからであろう。
四月の下旬に、御室のちゃぼ桜を観に行きたいし、五月には葵祭りにも行ってみたい。夏は祇園祭りがあるし、京都の人が羨ましい。

賀茂神社 (2008年の旅の続き)

伊勢から近鉄を使って京都に向かった。斎宮史跡を見たあとで、京都に着いたのはもう5時を過ぎていた。
夕食はからすま京都ホテルのすぐ近くにある割烹「うをすえ」に行った。カウンター席が広くて、ご主人夫妻や息子さんが気さくに話相手になってくれた。店が綺麗で、手頃な値段でおまかせ料理がいただける。一人旅にはうってつけの料理屋である。

翌日は最初に上賀茂神社に行き、次に下鴨神社に行くことにした。二つの神社を合わせて賀茂神社という。
京都三大祭のひとつ、葵祭で有名な神社である。わが国の祭のうちでも、歴史も古く、最も優雅で古趣に富んだ祭として知られている。平安朝の優雅な平安貴族そのままの姿で行列をつくり、京都御所を出発、総勢500名以上の風雅な列が下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かう。
 この賀茂神社は御所の近くにあって、宮城鎮護の神様であるだけではなく、京の都の地下水脈の中心になっている。京料理が美味しいのも、この豊かな地下水のおかげである。水の都、京都の文化をはぐくみ育ててきたのがこの水脈であることが、頭にあって、私をこの神社に最初に向かわせたのだと思う。
 京都の中心部を流れる鴨川は、上賀茂神社の付近では賀茂川で、下鴨神社を下ったところで高野川と合流して鴨川となる。京都御所は川をへだててすぐそばにある。

 上賀茂神社も下鴨神社も広大な敷地に多くの社殿を持ち、規模の大きさでは伊勢神宮にも匹敵するほどである。伊勢神宮と同じように、式年遷宮が行われる。ここの場合は21年毎で次の遷宮は平成27年になっている。また、ほとんどの建物は国宝や重要文化財になっているため、大修理をもって遷宮としているようだ。両神社ともに世界文化遺産に登録されている。

上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社(かものわけいかづちじんじゃ)」で、写真などで有名な、拝殿前に二基の立て砂が置かれている。これは神が降りたつ場所とされているが、上賀茂神社のシンボルマークになっている。私が行ったときは、二月の平日で観光客はほとんど無く、参拝者も地元の人がまばらにいる程度だった。バスを降りて、案内の矢印をたよりに境内に入って目に付いたのが、昨日まで伊勢神宮で見ていた「式年遷宮」の大きな看板だった。ここにも、同じような行事が行われるのだと、そこで気が付いた。鳥居をくぐって中に入ると、ガイドブックに載っている拝殿の前に立て砂が二基並んでいる光景が現れた。さらに入ると、朱塗りの綺麗な楼門と本殿が見えた。伊勢神宮とは異なり、平安朝以降の神社の建築様式となっている。静かなせいか、歩くときの砂利の音がやけに響く。それと、京都の守護神というより、地下水脈を守る神と思いたくなるほど、あらゆるところに、水音が聞こえる。

上賀茂神社は京都の北部に位置するが、下鴨神社に行くバスがあった。ここで、実感が湧いてきたのだが、バスを使えば京都はどこでも行けるということだ。観光客は乗っていないが、地元の人はみんなバスを使っているようで、乗客は多い。下鴨神社前でバスを降りると、神社の境内の横から入ることになる。本来の参道は糺の森(ただすのもり)を通る。この広大な糺の森には多くの小川が流れていて、まさに、水の都、京都のシンボルである。下鴨神社の正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)である。上賀茂神社と同じように、歴史的には古いが、桓武天皇の平安遷都により、宮城の守り神として大いに栄えたという。美しい朱塗りの楼門を入って、点在する社殿を見てまわるのも良いが、春や秋の季節の良い頃、糺の森を散策するのが最高かも知れない。今回は、お供え物の調理どころである「大炊殿」と斎宮から移したと云われる「葵の庭」の特別拝観ができた。

天皇家の守護神として、この賀茂神社にも、伊勢神宮と同じように斎王制度が嵯峨天皇のときに設けられ、400年もの間、天皇の内親王が賀茂神社の神に仕えている。賀茂神社の場合は斎王ではなく、斎院と呼ばれていた。現在でも、葵祭りのときは斎院の代わりとして民間から斎王代が選ばれ、禊をしたのち、十二単をまとい、輿に乗って斎王代列をなし、行列に加わる。

小倉百人一首にも入っている、後白河天皇の皇女、式子(しょくし、のりこ)内親王は賀茂神社の斎院であった。式子内親王は新三十六歌仙に選ばれ、新古今和歌集や千載和歌集に多くの歌を残している。彼女が斎院であったときに詠んだ歌が次の百人一首に出てくる歌である。

新古今集 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの よわりもぞする」 式子内親王
(私の命よ、絶えるなら絶えてほしい。このまま生きながらえていたら、胸の思いをこらえて、耐えている力も弱ってしまうかもしれない)

賀茂齋院で神に仕える身で定家と恋仲になりながら、それを忍び、耐えねばならないという胸の思いを歌っている。定家は云うまでもなく、新古今和歌集の撰者の一人、藤原定家のことである。

この賀茂神社に関連した、忘れてはならない人物として、式子内親王とほとんど同じ時期に生きた鴨長明がいる。鴨長明(かものながあきら)はこの下鴨神社の神事を統率する正禰宜(しょうねぎ)、鴨県主長継(かものあがたぬしながつぐ)の次男として生まれている。若い頃は歌人として、その名を馳せたが、出家した後に著したのが、「徒然草」、「枕草子」と並んで三大随筆と呼ばれる「方丈記」である。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくの如し。・・・・・」と世の中の無常を嘆き、最後は諦観の境地に至って、この随筆を終えている。

式子内親王と鴨長明が生きた時代は、まさに、「平家物語」に書かれた時代である。その冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。・・・」という有名な文章も「方丈記」と同じ、人の世の無常さを謡っている。式子内親王も鴨長明も、平清盛や後白河法皇、建礼門院と同じ時代に京の都で生きていたのである。

賀茂神社を流れる川の水を見ながら、京の都をはぐくんで来た水は、絶えることなく流れ、千数百年の間、権力や貴賎に拘わらず、人々の生活を支え続けてきたのだと、あらためて思った。

伊勢神宮

登茂山展望台から見た英虞湾
内宮正殿内宮神楽殿

私にしては珍しく、急に思い立って、一人旅をすることになった。40年も前に勤務していた会社の友人からの年賀状をきっかけに、大学の卒業旅行で行った伊勢志摩のモノクロ写真のイメージがよみがえってきたのだ。
それと、ついでに、いつも急ぎ足で有名なところしか行っていない、京都も自分の足と意志だけで廻ってみたくなった。
4泊5日の日程で、最初の2泊は健保組合の直営保養所である、「賢島パールハウス」、京都は契約保養所の「からすま京都ホテル」にした。40年来の友人で、鈴鹿に住んでいるO君が賢島に一緒に宿泊して、伊勢志摩を車で案内してくれた。おかげで、二人前からになっている特別メニューの伊勢海老のお造りとアワビの踊り焼きを味わうこともできた。
 伊勢志摩の海岸は、昔行った頃の、大王崎や和具の素朴な海岸線はすっかりなくなって、海岸の浜辺がずいぶん狭くなっていた。防波堤やテトラポッドがあって、昔の面影が消えている。さざえを取っている海女さんたちを見ることができたのがせめてもの慰めになった。また、大王崎から伊勢に向かう途中立ち寄った、登茂山から観た、太陽に照らされた英虞湾の海の青さと、島々の緑や真珠の養殖いかだの光景がとても美しかった。

伊勢に入って最初に廻ったのが「おかげ横丁」界隈で、通常の門前町と違い、碁盤目状になっている。中でも目立つのは製造日偽装で営業停止になっていた「赤福」の堂々たる店構えだった。明日から営業再開という紙が貼ってあった。店の前で貼り紙を見てたら、NHKのカメラマンがO君の方に寄ってきて、インタビューをしていた。あとで聞いたが、O君は3度もテレビに出演(?)したようだ。
 伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」というらしい。内宮(ないくう)と外宮(げくう)に分かれているが、内宮は「皇大神宮」と呼ばれ、天照大神を祀っている。御神体は、八咫鏡(やたのかがみ)で、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を加えて三種の神器(じんぎ)と呼ばれている。
外宮は「豊受大神宮」と呼ばれて、神々にさし出す食物をつかさどる豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っている。江戸時代に「おかげ参り」と称されて多くの庶民がお伊勢参りに行ったのも、農業や産業の神様であるこの豊受大御神をお参りに行ったとされている。
 日本書紀によると、内宮は、崇神(すじん)天皇の時に大和に祭り始められたが、垂仁(すいにん)天皇になって、倭姫命(やまとひめのみこと)が、もっと良い場所がないかと、大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡ったのち、伊勢の国の五十鈴川の川上に到り、天照大神の教えのままに「祠(やしろ)」をたててお祭りすることになったと云う。
外宮は、雄略(ゆうりゃく)天皇が、夢の中で天照大御神の教えを受けて、豊受大御神を丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えしたといわれている。
日本書紀に書かれたことは歴史的にあいまいな点が多く、伊勢神宮の建立も実際はいつの頃かよくわからない。
内宮、外宮ともに20年に一度、正殿(しょうでん)をはじめ、その主な棟は建て替えられる。これを式年遷宮と呼び、そのための土地も隣に用意されている。一番最近に行われた遷宮は平成5年で、次が平成25年に行われる。現在、そのための諸祭や行事が行われている。我々が見ている神宮はいつも新しい社殿で、仏教の寺院のように歴史的に古いものではない。建物の古さよりは、はるか昔から伝承されてきた文化や建築様式の古さが貴重なのである。また、神道は偶像を崇拝する宗教ではないため、仏像のような古美術品もないし、そのための建物も不要だったのである。
 式年遷宮を制度化したのは、天武天皇の時代で、第一回の式年遷宮は次の持統天皇の時とされている。天武天皇は、歴史的にも有名な壬申の乱で、兄の天智天皇の実子である大友皇子と戦った、大海人皇子である。伊勢の地の五十鈴川のほとりを天照大神を祀る場所とした、倭姫命が、そのために訪ね歩いた地や、丹波の国は大海人皇子が吉野を出て、伊勢や東国の豪族を集めて戦った壬申の乱に登場する土地である。タイトルは忘れたけれど、昔、この壬申の乱に関する小説か新書を読んだ記憶がある。この壬申の乱の最大の激戦地が、後に徳川家康の東軍と石田三成率いる西軍が戦った関が原である。壬申の乱でも朝鮮半島の百済を救うために、唐、新羅連合軍と戦って惨敗した白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で大きな犠牲を払わされた東国の豪族たちが近江朝廷側の大友皇子に反抗して大海人皇子を立てて戦ったのである。倭姫命が訪ね歩いた地は大海人皇子が吉野を出兵して、転戦して行ったのとちょうど逆コースになる。この中には丹波も含まれる。崇神天皇や垂仁天皇、倭姫命はすべて日本書紀によって伝承された人物で、しかも日本書紀が編纂されたのが天武天皇の命によるものである。このことから、伊勢神宮は天武天皇が、みずからが、天皇家の正しい継承者であることを示すために建立した社ではないかと思う。その100年も前の聖徳太子の時代に仏教が伝わり、法隆寺や四天王寺が建立されたのに対し、それまでの在来宗教である神道を象徴する建物がなく、信仰対象となるご神体が宮中にのみ伝わっていたのが不思議である。日本書紀でも崇神天皇が、それではあまりにも勿体なく畏れ多いこととして、大和の別宮にお祭り申し上げたことになっているが、一時吉野に逃れていた大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱後に飛鳥浄御原宮で即位したのち伊勢に天皇家の祖先を祀る神宮を創設したと理解したほうが無難である。そうすると式年遷宮制度の制定や斎宮の創設が天武天皇によるものであることとうまくつじつきが合う。

内宮は観光客で賑わっていたが、外宮に行くと静かである。どちらも唯一神明造と呼ばれる古くからの建築様式で、正殿の屋根の上に並んでいる鰹木(かつおぎ)の金色がキラキラと輝いていて美しい。正殿のある一角は正宮と云うが、その中には入れないし、写真撮影も禁止されている。むしろ、内宮、外宮の自然や神々しい雰囲気を味わうほうが本来のお伊勢参りにふさわしいと思う。

「なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」 西行

三日目に斎宮(さいくう、いつきのみや)に行った。ここは内田康夫著「斎王の葬列」に出てくる斎王(さいおう、いつきのきみ)が住んでいた宮廷である。

真鶴と湯河原温泉

お林展望公園 1お林展望公園 2お林展望公園 3 お林展望公園 4
お林展望公園

旅に出て、なんとなく得したような気がするときがある。一つは思いもかけない美しい風景や場所に遭遇したときである。もう一つは、期待以上にすばらしい旅館に、ゆっくりと泊まることができたときである。

今年は春から夏にかけて、家の改築で行けなかったが、例年は、少なくとも2ヶ月に一度くらいは温泉に泊まる。いつも女房を乗せて車で行くので、それほど遠いところには行けない。せいぜい関東周辺である。

20日の夜、湯河原温泉に一泊した。朝は早めに出たので、湯河原にはお昼に着いた。予約していた旅館のチェックインが3時で昼食をとっても、時間をもてあましてしまう。湯河原の公園もまだ紅葉の時期ではないので、真鶴半島に行くことにした。車で行くとすぐである。カーナビを頼りにして、林の中の半島周遊道路を半島の突端まで車を走らせた。行き止まりに大きな駐車場があって、芝生を敷き詰めた広くてきれいな公園にたどりついた。

車から降りてみると、湯河原ではとても寒かったのに、その公園の中はまるで温室に入ったように暖かい。公園の中は椰子の木や棕櫚、蘇鉄、名は知らないが、大きなアロエみたいな樹木が生えている。海がすぐ下に見える高台になっていた。日差しもあり、海からの風が吹いてくるので、暖かいのだろう。
他には人がいない。広い芝生の中をのんびりと散歩した。空にはとんびが飛んでいて、すこぶるのんびりした気分になった。かなたに真鶴岬と三ツ石が見える。いつもは熱海から見る初島も近くに見える。公園の名前を確かめたら、お林展望公園(おはやしてんぼうこうえん)と書いてあった。 喫茶室がある管理棟の人に聞いたら、ここは平成17年にできたとのことで、その前はサボテンランドというのがあったらしい。夏には、ハワイアンダンス大会もひらかれるという。
この公園から、下のほうに降りて行ったら、真鶴海岸に出るようだ。以前、三ツ石にも行ったことがあるので今回は止めて、宿に戻ることにした。失敗したと思ったのは、昼食を湯河原ではなく、真鶴の新鮮な刺身を食するべきだったことである。町営の「魚座」という店がある湯河原の宿は「ホテル東横」という。私が所属している健康保険組合の契約保養所である。この旅館は、改築してまだ10年もたっていないという。部屋も広くて綺麗で、設備も整っていた。大きい窓からは紅葉しかかりの奥湯河原の景色が全面に見える。
得した気分になるのは、お客が少なくて、広いお風呂を一人で占有できるときである。今回も、三種類の風呂がすべてそういう状態だった。部屋についている風呂も温泉でタイル張りの風呂であった。

翌日は、箱根を周って帰ったが、芦ノ湖畔の紅葉が鮮やかに色づいていて、気持ちの良いドライブが出来た。
戦国原を通って小田原へ下り、小田原城に寄り、その前でそばを食べて、一路東京へ向かった。

芦ノ湖
芦ノ湖

梁(やな)の風景

 

高瀬観光やな

家のリフォームが終了し、暑い夏が過ぎて、余裕のできたところで、久しぶりに塩原温泉に行った。10月半ばでまだ紅葉の時期には早く、道も空いていた。国道294号線をひたすらまっすぐ行って、黒羽の手前で国道400号線に折れるコースを採った。途中、茂木を過ぎて、喜連川方面から流れる荒川が、那珂川に合流する手前にある「一ツ石観光やな」に立ち寄った。
那珂川には多くの観光やながある。少し上流にある「高瀬観光やな」と下流にある「大瀬観光やな」が大きくて有名である。
「一ツ石観光やな」はそれほど大きくはないが、国道のすぐそばにあり、食事をするには便利で、見晴らしも良い。
梁で取れた天然鮎の塩焼き3本がつく鮎定食が1200円で昼食には手頃である。梁の風景を見ながら心地よい川風をうけて産卵前の香ばしい鮎をいただいた。
鮎は釣りで獲るのが最もポピュラーだが、投網で獲ったり、長良川で有名な鵜飼いや、梁漁で獲るのも伝統的な方法である。いずれの漁法も鮎を資源として保護するために禁漁期間が設けてある。梁漁も6、7月から10、11月までである。「やな」というのは「簗」とか「梁」と書くが、川に竹や丸太、石かご、砂利袋などを用いて、水流をさえぎるように張って、中央に簀棚(すだな)を設け、泳いでくる鮎などを捕獲する仕掛けである。6月頃に設置して11月には撤去する。
鮎は縄張りを持っていてその中の川底にある石などに付着する藻類を食べて生きる。10~11月に川底に産卵し親は死ぬが、孵化した稚魚は海に下り、プランクトンを食べて越冬する。翌春3~5月に、生まれた川に上る習性を持っている。大きな梁を毎年作り直すのは、この鮎の習性を利用して保護するためである。
梁が川幅全面に張られても、鮎が一網打尽で捕獲されないのは、縄張りを持つという習性があるからだ。梁の近くには、梁を張るための大きな石がたくさんころがっている。その石に藻類が付着し、鮎にとっては棲みやすく卵を産むにも絶好の場所となる。梁の近くに釣り人が多いのも、そのためである。鮎にとっては棲みやすいが危険な場所でもあるのだ。
この梁漁というのは歴史が古く、弥生時代にはすでにあったという。万葉集の中でも3首の歌が詠まれている。

◇「安太人(あだひと)の 梁(やな)打ち渡す 瀬を速み 心は思(も)へど 直に逢はぬかも」 (巻11-2699 詠み人不詳)
(訳)阿田の川人(カワト)が梁を打ち渡す瀬は流れが速く渡れないように 、渡れない逢瀬に心思うばかりで、じかに逢うことのできないもどかしさよ

◇「この夕(ゆふへ) 柘(つみ)の小枝(さえだ)の 流れ来ば 梁(やな)は打たずて 取らずかもあらむ」 (巻3-386)
(訳)この夕べに、もし仙女の柘の枝が、流れてきたら、梁は仕掛けていないので、取らずじまいになるのではなかろうか

◇「いにしへに 梁打つ人の なかりせば ここにもあらまし 柘の枝はも」 (巻3-387)
(訳)むかし、梁を仕掛けて柘の枝を取った味稲(うましね:補筆参照)のような人がいなかったら、今も此処にあるはずの柘の枝よ・・・自分もその柘の枝の仙女に、逢えただろうに・・・

二番目と三番目の歌は若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が宴席で詠んだ歌で柘枝(つみのえ)伝説について歌ったものである。
万葉集に歌われている梁はいずれも奈良の吉野川に張られた梁である。また、柘の小枝ではないが、梁は川に流れる木の枝やゴミなども堰きとめることができるので、川を清浄化するのにも役立っている。
毎年、梁をつくりなおすときは、漁業関係者や釣り人など多くの人が協力して行われる。このようにして、古人(いにしえびと)の知恵を受け継ぎながら川の営みを見つめ続ける梁のそばで、この伝統的な漁法で獲れた鮎の塩焼きをいただくのもまた風流かつ楽しいものである。車で来なければ、お酒も楽しめるのだが。
「一ツ石観光やな」のビデオを撮影したあとは、国道294号線で、途中、「高瀬観光やな」を通り過ぎ、那須塩原温泉へ向かった。温泉の宿は空いていて、のんびりとした夜を過ごした。

つみ

(補筆)◇柘枝(つみのえ)伝説
昔、吉野に美稲(うましね)という男がおり、吉野川に梁を打って鮎を獲って世を渡っていた。ある日、上流から柘(つみ)の枝が流れてきて梁にかかったので、取って持ち帰って家に置いたところ、美麗な仙女に変わった。ついに夫婦の語らいをし、老いず死なずに共に暮らした。
その後、女は羽衣を着て仙界に帰り、美稲もまた、共に仙界へ去ったと言う。この伝説は「かぐやひめ」の原型の一つとも言われている>

八ヶ岳の別荘

 8月6日に八ヶ岳の麓にある従姉妹のTさんの別荘へお邪魔した。
いつもは女房が一緒に乗っているのだが、一人で長距離をドライブするのは珍しいことだ。出来たばかりの圏央道を通った。鶴ヶ島JCTから八王子JCTの間は時間的にはそう長くはないが、距離からすると随分遠い。
 途中、談合坂SAに寄ろうとしたが、案内板で見ると満車となっていて次のPAで一休みした。丁度サラリーマンの夏休みが始まったばかりのようだ。長坂インターで降りて、カーナビに振り回されながら小海線の甲斐小泉駅近くの陶染坊というそば屋さんに向かった。そこでTさんが水彩画の個展を開いておられるという。昼食のそばを食べようと立ち寄ったところで、丁度Tさんがやって来た。

 一番の目的である個展を見て自分の書斎に飾る絵をえらんだ。Tさんはもともと東饗のビオラ奏者であるが、絵画の才もあってそれでも稼いでおられる。随分器用なお方だと思う。
 別荘に行く途中、日帰り温泉施設に寄り、一風呂浴びて、そのあと時間があったので富士見高原ゆりの里に連れて行ってもらった。ここまで来ると下界を忘れるくらいに涼しい。リフトに乗って終点まで行くとたくさんのゆりが咲いていた。観光客もまばらでのんびりしたひと時を過ごした。

 別荘へは3時頃着いた。この別荘は築20年以上だと思うがそんなに古さは感じない。高い場所にある所為か寒いくらいだ。Tさんのオーディオを聴きながら、音楽談義に花が咲いた。夜はテラスでバーベキューをご馳走になったが、本当に寒いくらいで上着を借りて食べた。

 翌日は朝、別荘村を散策したが人一人見かけなかった。一時間ほど歩いたがとても心地よかった。下界は猛烈に暑いがこの高さだと汗もかかない。「めかけと別荘は持つものではない」というが、温暖化が厳しくなると別荘のありがたさがわかるかも知れない。

 朝食を済ませて、Tさん夫婦と3人で近くの飯盛山にリフトで登った。ここもお花畑がきれいである。頂上でTさんがスケッチを描くのを待って下山し、野辺山電波天文台のそばで昼食をとった。天気も良く日が照っていても風が心地よい。まさに天国のようだ。

 帰りは行きと同じ道を帰ったが、下界に着いたら猛烈に暑い。SAは人であふれるほど混んでいた。まさに夏休みの始まりだと思い知らされた。柏まで戻った頃夕方になったので夕食を食べに柏の葉キャンパスに寄ったらそこはがら空きだった。なんでこんなに空いてるのかとレストランの人に聞いたら、夏休みでみんな観光地に行ったのでしょうと言われた。