1995年1月17日 阪神淡路大震災

 この頃、前の年からスタートした、ある電機メーカーの一事業部での業務改革プロジェクトに入っていた。毎週、2~3日間だけ、お客様のプロジェクトメンバーと一緒になって、業務改革の素案を作る作業である。我々の会社からは、東京にオフィスを持つ私と大阪にオフィスを持つNさん、それに名古屋のAさんの三人が入っていた。
 この週の月曜日、16日は前の日が成人の日と日曜日が重なったために休日になっており、私は16日の夕方から大阪の京橋にあるホテルに宿泊していた。17日と18日に作業をする予定だった。
 17日未明、突如として大きな揺れに目を覚まされた。ベッドに座っているのもやっとのような感じだった。すぐそばにあるテレビのスイッチを入れた。私の記憶では、NHK大阪放送局の仮眠室の二段ベッドから飛び起きてくる職員のシーンが写しだされ、字幕で「ただいま淡路島北部を震源とする大きな地震が発生しました。」というテロップが流されていた。まもなく、アナウンサーの顔が映し出され、第一声が発せられた。「ただいま第一報が届きました。午前5時45分頃、近畿地方を中心として強い地震がありました。震度6が神戸・・・」というものであった。余震が何度かあって、私が泊まっていたホテルの14階の揺れはずいぶん大きく感じた。起きてもしかたがないので、またベッドに入った。
 朝、7時頃起きて、テレビを見たら、ずっと地震のニュースが続いている。NHK神戸放送局の映像が出て、すごい揺れで机や棚の上のものが落ちて、四散している状況が写し出されていた。同じ内容が繰り返し放送されていたが、少しずつ現場の映像や、ヘリコプターからの映像も届いてきていた。ホテルから六甲山とその裾に帯状に横たわる神戸市が遠くに見える。神戸市はいろんな所で火災が発生し、煙があちこちに立ち昇っている。ところどころで炎がでているのが見えた。時間が経つうちに神戸市内の様子がわかってきた。ホテルのすぐそばを走っているはずの、環状線の電車も動いていなかった。お客様の会社に行こうにも、電車がすべて止まっている。同じホテルに泊まっていると思っていた、名古屋のAさんはいない。10時頃に大阪のNさんに電話をしたら、彼はこれから、神戸に住んでいるお母さんを自分の家に連れてくると云っていた。その日は何もせずに、ずっとテレビと窓から見える神戸市の煙の状況を見ていた。上空には何機ものヘリコプターが飛んでいた。夜になると火事の炎がよく見える。新たに火災が発生する様子も見える。翌日もお客様の会社は休みとなり、仕事は木曜と金曜日になった。金曜まで新幹線は大阪京都間は徐行運転をしていた。出張から我家に戻ったのは土曜日になった。
 今年の1月は阪神淡路大震災から13年になる。毎年、1月17日に追悼式が行われている。追悼式は被害を受けたいろんなところで行われるが、その模様をテレビで見ていたら、小学校の朝礼でおこなわれている追悼式で、一人の女の子が校長先生のお話を聞きながら、ポロポロ涙を流して泣いている。小学3年生くらいの女の子である。震災のときはまだ生まれてもいないはずだ。ご両親も元気だと想像できるのだが、震災の経験を何度も聞かされているのであろう。私も胸が打たれ、もらい泣きしそうになった。ずいぶん感受性の強い子だと思った。いつまでも優しい気持ちを持ち続けて欲しい。
 1月21日の産経新聞の投書欄「談話室」に「阪神・淡路大震災から13年がたった。当時、『無人のスーパーから物を盗む人がいないとは、日本とは何と安全な国だ』と他国から驚きの声があったと聞き、自国を少し誇りに思ったものだ。しかし、・・・・」という投書が載っていた。私も同感であるが、もう一度、あのときの状況を確かめてみたくなって、“YouTube”のいろんなビデオ映像を見た。あの当時の放送では公開されていなかったいろんな映像が蓄積されていた。テレビではかなり表面的な内容しか放映していないが、現場の生々しい映像がたくさんあった。火事場泥棒的な盗難もあったようだが、やむにやまれぬようなもののようである。それ以上にパニックが起こっていないことに感心させられた。消防隊や警察、一部の自衛隊と、近隣の人たちの救命活動が整然と行われたことである。震災発生当日は神戸市内への道路が封鎖されて、自動車での進入ができなかったことが大きかったと思う。報道関係のヘリコプターがたくさん飛んでいるのに、消火や救助のためのヘリコプターが飛んでいないのも問題である。救援活動で最初にヘリコプターが飛んだのが、ダイエーやセブン・イレブンの救援物資の運搬であり、暴力団山口組や宗教団体の救助活動も行われたようである。当時の政府は村山社会党内閣で、自衛隊の大量派遣をずいぶん渋っていたようだ。憲法違反と言っていた自衛隊が活躍してくれることは望まなかったのかもしれない。
 翌日から、交通封鎖は解かれたが、マスコミやボランティア、それに家族や親類を助けに来た人たちで一杯になった。他県からの消防隊や警察などの応援もあって、秩序は保たれていたようである。

阪神大震災とは関係ないのだが、1月21日の産経新聞の同じ紙面に、16年前の「朝の詩」欄に載せられた『娘』という詩が再掲載されていた。再掲載を依頼した読者は手帳にこの詩をいつも挟んでいて、この詩を読むと心が洗われるという。小学校の追悼式で涙を流して泣く女の子のように、私も他人の不幸や痛みを自分のものとして、悲しみ嘆く人間であり続けたいと思う。

朝の詩「娘」