伊勢から近鉄を使って京都に向かった。斎宮史跡を見たあとで、京都に着いたのはもう5時を過ぎていた。
夕食はからすま京都ホテルのすぐ近くにある割烹「うをすえ」に行った。カウンター席が広くて、ご主人夫妻や息子さんが気さくに話相手になってくれた。店が綺麗で、手頃な値段でおまかせ料理がいただける。一人旅にはうってつけの料理屋である。
翌日は最初に上賀茂神社に行き、次に下鴨神社に行くことにした。二つの神社を合わせて賀茂神社という。
京都三大祭のひとつ、葵祭で有名な神社である。わが国の祭のうちでも、歴史も古く、最も優雅で古趣に富んだ祭として知られている。平安朝の優雅な平安貴族そのままの姿で行列をつくり、京都御所を出発、総勢500名以上の風雅な列が下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かう。
この賀茂神社は御所の近くにあって、宮城鎮護の神様であるだけではなく、京の都の地下水脈の中心になっている。京料理が美味しいのも、この豊かな地下水のおかげである。水の都、京都の文化をはぐくみ育ててきたのがこの水脈であることが、頭にあって、私をこの神社に最初に向かわせたのだと思う。
京都の中心部を流れる鴨川は、上賀茂神社の付近では賀茂川で、下鴨神社を下ったところで高野川と合流して鴨川となる。京都御所は川をへだててすぐそばにある。
上賀茂神社も下鴨神社も広大な敷地に多くの社殿を持ち、規模の大きさでは伊勢神宮にも匹敵するほどである。伊勢神宮と同じように、式年遷宮が行われる。ここの場合は21年毎で次の遷宮は平成27年になっている。また、ほとんどの建物は国宝や重要文化財になっているため、大修理をもって遷宮としているようだ。両神社ともに世界文化遺産に登録されている。
上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社(かものわけいかづちじんじゃ)」で、写真などで有名な、拝殿前に二基の立て砂が置かれている。これは神が降りたつ場所とされているが、上賀茂神社のシンボルマークになっている。私が行ったときは、二月の平日で観光客はほとんど無く、参拝者も地元の人がまばらにいる程度だった。バスを降りて、案内の矢印をたよりに境内に入って目に付いたのが、昨日まで伊勢神宮で見ていた「式年遷宮」の大きな看板だった。ここにも、同じような行事が行われるのだと、そこで気が付いた。鳥居をくぐって中に入ると、ガイドブックに載っている拝殿の前に立て砂が二基並んでいる光景が現れた。さらに入ると、朱塗りの綺麗な楼門と本殿が見えた。伊勢神宮とは異なり、平安朝以降の神社の建築様式となっている。静かなせいか、歩くときの砂利の音がやけに響く。それと、京都の守護神というより、地下水脈を守る神と思いたくなるほど、あらゆるところに、水音が聞こえる。
上賀茂神社は京都の北部に位置するが、下鴨神社に行くバスがあった。ここで、実感が湧いてきたのだが、バスを使えば京都はどこでも行けるということだ。観光客は乗っていないが、地元の人はみんなバスを使っているようで、乗客は多い。下鴨神社前でバスを降りると、神社の境内の横から入ることになる。本来の参道は糺の森(ただすのもり)を通る。この広大な糺の森には多くの小川が流れていて、まさに、水の都、京都のシンボルである。下鴨神社の正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)である。上賀茂神社と同じように、歴史的には古いが、桓武天皇の平安遷都により、宮城の守り神として大いに栄えたという。美しい朱塗りの楼門を入って、点在する社殿を見てまわるのも良いが、春や秋の季節の良い頃、糺の森を散策するのが最高かも知れない。今回は、お供え物の調理どころである「大炊殿」と斎宮から移したと云われる「葵の庭」の特別拝観ができた。
天皇家の守護神として、この賀茂神社にも、伊勢神宮と同じように斎王制度が嵯峨天皇のときに設けられ、400年もの間、天皇の内親王が賀茂神社の神に仕えている。賀茂神社の場合は斎王ではなく、斎院と呼ばれていた。現在でも、葵祭りのときは斎院の代わりとして民間から斎王代が選ばれ、禊をしたのち、十二単をまとい、輿に乗って斎王代列をなし、行列に加わる。
小倉百人一首にも入っている、後白河天皇の皇女、式子(しょくし、のりこ)内親王は賀茂神社の斎院であった。式子内親王は新三十六歌仙に選ばれ、新古今和歌集や千載和歌集に多くの歌を残している。彼女が斎院であったときに詠んだ歌が次の百人一首に出てくる歌である。
新古今集 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの よわりもぞする」 式子内親王
(私の命よ、絶えるなら絶えてほしい。このまま生きながらえていたら、胸の思いをこらえて、耐えている力も弱ってしまうかもしれない)
賀茂齋院で神に仕える身で定家と恋仲になりながら、それを忍び、耐えねばならないという胸の思いを歌っている。定家は云うまでもなく、新古今和歌集の撰者の一人、藤原定家のことである。
この賀茂神社に関連した、忘れてはならない人物として、式子内親王とほとんど同じ時期に生きた鴨長明がいる。鴨長明(かものながあきら)はこの下鴨神社の神事を統率する正禰宜(しょうねぎ)、鴨県主長継(かものあがたぬしながつぐ)の次男として生まれている。若い頃は歌人として、その名を馳せたが、出家した後に著したのが、「徒然草」、「枕草子」と並んで三大随筆と呼ばれる「方丈記」である。「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくの如し。・・・・・」と世の中の無常を嘆き、最後は諦観の境地に至って、この随筆を終えている。
式子内親王と鴨長明が生きた時代は、まさに、「平家物語」に書かれた時代である。その冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。・・・」という有名な文章も「方丈記」と同じ、人の世の無常さを謡っている。式子内親王も鴨長明も、平清盛や後白河法皇、建礼門院と同じ時代に京の都で生きていたのである。
賀茂神社を流れる川の水を見ながら、京の都をはぐくんで来た水は、絶えることなく流れ、千数百年の間、権力や貴賎に拘わらず、人々の生活を支え続けてきたのだと、あらためて思った。
