嵐山と太秦 (2008年旅行の続き)

仁和寺から嵐山までは京福電鉄を使う。途中乗り換える必要はあるが、終点が嵐山である。嵐山の駅を出ると観光客で賑わっていた。お土産屋さんもたくさんあるし、人力車がたむろして、客待ちしていた。次に観たいお寺として目指していた天龍寺は駅のすぐ前である。ビデオを撮影していたら、いきなり、市長選挙の宣伝カーが通りすぎ、大きな声がまともにビデオに録音されてしまった。京都はどういうわけか、共産党が強いところらしい。

駅前の通りから天龍寺の境内に入ると静かになった。石畳の路をまっすぐ行くと、方丈に入る庫裡がある。龍安寺とは、同じ禅宗で宗派も同じ臨済宗のためか庫裡の格好もそっくりである。庫裡というのは、本来、台所の意味だが、禅宗では玄関を意味するようだ。庫裡の中に入ると正面の達磨さんの絵がこちらをにらんでいた。靴を脱いで、方丈の縁側に出ると大きい池を中心とした庭が広がっていた。その向こうには緑で覆われた高い築山がそびえていて、美しい景観を池に写している。この曹源池に面して、この寺で最も大きな建物である方丈にはいくつかの部屋があるが、中に入って座って池を見ると、良い景色だ。大きな一眼レフのデジカメを持ったおばちゃんに、「ここから撮ると良い写真が撮れますよ」と云うと「入っても良いのですか?」と聞くので「入ってはいけないとは書いてないから、大丈夫ですよ」と云ってやった。おばちゃんは部屋の中に入ってきて、さかんにシャッターを押していた。最近はカメラクラブが多いせいか、あまりカメラに似つかわしくないおばちゃんが大きな一眼レフカメラを持って写真を撮っている光景によくぶつかる。どうみても良い写真にはなりそうにないところを撮っているので、つい口を出してしまう。朝ドラ「ちりとてちん」に出てくるフリーライターの奈津子さんみたいな女性だと一眼レフカメラはよく似合うのだが。

天龍寺は南北朝時代に吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が、夢窓国師を開山として創建したお寺である。もともと、この地は後嵯峨上皇の仙洞御所があった所で、後醍醐天皇も幼少の頃、ここで過ごしている。この寺院を建立するための資金調達のために、夢窓国師は、「天龍寺船」による中国、明との貿易を進言している。夢窓国師は夢窓疎石とも呼ばれているが、西芳寺(苔寺)の開山でもあり、優れた作庭技術を持っていた。さらに、明との貿易である勘合貿易のきっかけまで作っているから、商才まであったと思われる。足利義満が、自分の死後、とっくに亡くなっている夢窓国師を金閣寺の開山にするように遺言したのも、勘合貿易によってもたらされた富によって、室町幕府が大いに栄えたからであろう。

方丈の中だったと思うが、足利尊氏の束帯姿の木像があった。最初に見たときは後醍醐天皇の像かと思ったが、そうではないらしい。足利尊氏は、室町幕府を開いた初代の将軍であるが、後醍醐天皇を敵にまわしたために、明治以降は逆臣扱いを受けている。鎌倉幕府の北条氏を稲村ガ崎の戦いで打ち破った新田義貞や、湊川の合戦で足利軍と戦った楠木正成が忠臣として扱われているのに対して、尊氏は、歴史上、ずいぶん損な役割を演じている。
実際は鎌倉幕府の崩壊後に「建武の中興」という天皇親政の時代があり、その後に南朝と北朝に分裂、南北朝時代が始まる。尊氏は現在の天皇の祖である北朝側の臣下であり、後醍醐天皇の南朝とは対立していた。尊氏は決して、北朝の天皇をでっち上げたわけではない。鎌倉幕府の末期には、皇室が二派に分裂し、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につくことになっていたのである。建武の中興のときは、大覚寺統の後醍醐天皇による天皇親政となるが、鎌倉幕府を滅亡に追いやった豪族に対する恩賞に不満を持つ武士たちが反旗をひるがえし、持明院統の光明天皇を擁立する足利尊氏に従った。尊氏は後醍醐天皇側の新田義貞や北畠顕家、楠木正成と戦い、一度は敗北し、九州に逃れるが、西国の武将を募り、再度上京して、後醍醐朝廷軍に勝利したのである。後醍醐天皇は吉野に落ち延び南朝を打ち立てた後、南北朝時代に入る。南朝は50年程続き、足利義満の時代に衰退している。

鎌倉幕府の衰退から南北朝時代、室町時代初期までの戦乱を描いた物語として「太平記」がある。「平家物語」に比肩できるほどの軍記物語である。私は吉川英治の「私本太平記」を読んだことがあるが、戦後に育った私にとっては、それまで、あまり聞いたことの無かった話で、私の父がよく歌っていた「青葉茂れる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、木の下陰に駒止めて・・・」の楠木正成や、歴史では少し習ったけれど、あまり明確にされない足利尊氏や新田義貞が活躍するという興味深い物語であった。民主主義の戦後になっても、その頃の天皇や皇族がもろに生身の人間として描かれるため、長い間、映画になることも無かった。「太平記」は、昭和が終わり、平成3年にやっとテレビで大河ドラマとして放映された。「平家物語」に出てくる源義経に相当する人物が「太平記」にも登場する。若くて美男子と云われ、優れた公達武将であった北畠顕家である。顕家は公家の出であるが、後醍醐天皇の命により鎮守府将軍として奥州に出向いている間に、足利尊氏らが天皇に反旗を翻したので、急遽、京に向かい、新田義貞や楠木正成とともに、尊氏軍を打ち破っている。旗印は「孫子」から採った「風林火山」であった。武田信玄の専売特許ではない。テレビでは顕家役を後藤久美子が演じており、美しく凛々しい若武者であった。実際に、北畠顕家は京や鎌倉、奥州で何度もの歴戦を重ね、敗れることは無かったが、ついには疲労と怪我により徐々に兵力を喪失して、石津(堺付近)の戦いで討ち死にしている。享年21歳であった。顕家の子、北畠顕成は、後に村上師清を名乗り、この家系が戦国時代に村上水軍として発展する。

天龍寺を創建した足利尊氏の話から脱線して、「太平記」の世界にまで入ってしまったが、天龍寺は明との貿易まで行い資金を調達して建てられただけに、広大なお寺である。創建当時は今の嵐山の渡月橋あたりまで境内が広がっていたと云われている。曹源池の奥にある築山に登ると、京の町全体がよく見えた。今ではビルがたくさんあって、それほど景色は良くないが、当時は京を一望に収めることができたに違いない。

天龍寺を出て、嵐山の名物、渡月橋の映像を撮り、そのあと、京福電鉄で太秦の広隆寺へ向かった。

広隆寺は初めてで、弥勒菩薩の映像を撮りたかった。広隆寺は太秦広隆寺駅のすぐ前である。車も電車も通る道路に面している。「弥勒菩薩半跏思惟像」があまりにも有名で、「弥勒さんのお寺」、広隆寺が京都随一の古さを誇る寺院であることを忘れがちである。広隆寺は聖徳太子から賜った仏像、すなわち「弥勒菩薩半跏思惟像」を本尊として祀るために秦河勝が建立した寺である。この太秦の地は渡来人、秦一族が治めており、養蚕、機織などの大陸や朝鮮半島の先進文化の中心地であった。

境内の中は南大門の外から入ると急に静かになる。観光客がほとんどいない。目当ての「弥勒さん」は一体だけが本尊として納まっているのかと思ったら、新霊宝殿の中には他にも国宝級、重文級の仏像がたくさんあった。勿論、目当ての「弥勒さん」が中心に置かれているが、すぐ横に「弥勒菩薩半跏思惟像(百済伝来)」があったり、大きい仏像では阿弥陀如来坐像や不空羂索観音菩薩立像、十一面千手観音立像などがデンと納まっていた。それぞれが奈良の仏像にも対比できるような堂々たるものである。不空羂索観音菩薩立像は東大寺三月堂の不空羂索観音を連想させる見事なものだ。残念ながら撮影禁止でビデオどころか、静止画も撮影できなかった。

 広隆寺から、また京福電鉄で大宮まで行き、京都駅までバスに乗った。あとは新幹線でまっすぐに帰り、6時頃には東京へ着いた。
 この5日間の旅行は、日頃のことをすっかり忘れて楽しい思い出だけが残った。

冒頭で述べた、京都は共産党が強いらしいと書いたのは、3月7日の「産経新聞」のコラム『正論』に次のようなことが記してあり、市長選挙では共産党推薦の候補が敗れはしたものの、他政党すべてが推薦する当選者に僅差まで迫ったと書いてあったからである。論旨が面白いので、紹介する。
「日本人は南方から来た縄文人と北方から来た渡来人の混合した民族である。暖かい地方はバクテリアやウィルスなどの脅威にさらされるために、女は免疫力の強い男との子を生みたがる。だから、一夫多妻になり、あぶれる男も増える。いわば不平等の世界である。一方、寒い地方ではそういう脅威が無いので、一夫一妻になり、平等主義になる。平等主義になると批判精神が生まれてくる。京都は秦氏などの渡来人が開拓した土地で、その勢力は今でも残っているのであろう。批判精神に満ちた人の多い京都で共産党支持者が多いのはそのためである。」

「京都で共産党が強い理由」  弥勒菩薩半跏思惟像
京都で共産党が強い理由  弥勒菩薩半跏思惟像