久しぶりの帰郷である。福岡空港に午後3時頃に着いた。空港には従弟が迎えに来てくれていた。彼とは45年ぶりの再会である。最後に会ったとき、彼はまだ小学生で、叔母の家に行くと、いつも海や川で遊んであげた。その日は叔母の家でご馳走になり、車で送ってもらい、薬院のホテルに泊まった。
翌日、バスで佐賀へ向った。佐賀は私の生まれ育った町である。バスを降りて、駅前通りを真直ぐに南に下った。この通りには小さな事務所や金融機関の支店が多く、喫茶店やレストランが点在している。昔からある懐かしい商店も目に付いた。
さらに下って、県庁前に行く通りから左にそれ、昔の佐賀の中心となっていた商店街に入った。どこの町にもある「・・・銀座」と云われた街である。天気の良い昼前というのに、アーケードがあって商店街全体が気味悪いほど薄暗くなっている。人通りが無く、ほとんどの店がシャッターを下ろし明かりも無い。高校生の頃よく通った佐賀では最も大きな本屋さんがあった。そこだけは開いていたが、ガラス戸で入りにくくなっている。中を覘くと、店員さんが一人カウンターに立っていて、お客はひとりもいない。
昔は、この商店街から松原神社の前あたりまでアーケードのある商店街が続いていた。おもちゃ屋さんや、カバン屋さん、呉服屋さん、メガネ屋さん、お菓子屋さんなど、多くの店が並び、賑わっていた。
数年前まであった、「窓の梅」という食料品店も無くなっている。昔、デパートのあった場所には、奇妙なことに、昭和30年代に上映された映画の、ペンキで描かれた大きな看板がいくつか掲げられていた。その前に乾物のようなものを売っている、雨戸一枚程度の露店があった。お客はだれもいない。この商店街を通る人がまるでいないのである。
佐賀には福岡から長崎に行く国道34号線が走っていて、その沿線に官公庁が並び、佐賀神社や公会堂、図書館、体育館などの文化施設もその道路沿いにあった。通称、貫通道路と云っていたが、福岡や大牟田から長崎、佐世保に行く大きな道路はその道しかなく、まさに佐賀市を貫通していた。この道路沿いの店もほとんどがシャッターを閉めているか、保険会社の支店や小さな事務所のようなものに変っていた。私が生まれ育った家も、その道路に面し、父が商売をやっていた。近所の店もほとんどが無くなっていたが、隣の仏具屋さん、数軒先の衣料品店、薬局、それに向いにあったガソリンスタンドだけが残っていた。
昭和40年頃のエネルギー革命とその後の自動車の普及によって、この貫通道路が手狭になり、市の北辺と南部にバイパスが出来たのが、佐賀市のドーナツ化現象のきっかけになった。それまで佐賀市内を通過していた車が旧市街地を通らなくなったのは良いが、それとともに、バイパス沿いの田圃だった土地が開発され、土地価格の安い新しい住宅地に人口が集まるようになった。さらに、大きな駐車場を備えた大型ショッピングモールが出来て、買い物客の足がそこに向うようになってしまった。駐車場のスペースが無く、小さな地域を地権者で分け合うそれまでの商店街は衰退の一路を歩むしか仕方がなかったのだ。
現在の佐賀市の中心街は、城内と呼ばれる佐賀城を囲む内堀の中にあり、官公庁や公共施設、学校などが新しい建物になってそのまま存在している。佐賀城址も、それまであった私が通った小学校が移転し、そのあとに佐賀城本丸歴史館ができて、佐賀観光の中心になりつつある。この歴史館は佐賀鍋島藩の佐賀城本丸御殿を復元した木造建築で私が小学生の頃、「お居の間」と呼んでいた藩主の居室も材料はそのまま使われて再建されている。明治維新後の佐賀の乱で焼け残った「鯱の門」とも調和して佐賀のシンボル的な存在になりそうである。歴史館の隣には県立博物館・美術館が建てられていて、佐賀の歴史や自然、文化を知ることができる。それに、場所としては少し離れているが、今回初めて知った佐賀市歴史民俗館もレトロな雰囲気が残り、写真に撮っておきたい場所である。ここは明治時代に建てられ、その後、見向きもされなかった旧古賀銀行の建物やその近くの古い住居が観光地として公開され、周りの静かな環境とともに別世界に来たような気にさせられる。
佐賀市内には中心となる商店街は無くなったけれど、文化的な中心地が蘇ってきている。私が小さいときからフナ釣りをして親しんだ内堀の周りがきれいに整備され、満々と湛えた堀の水も空の青を映して美しかった。




