「菊水」

菱田春草「菊慈童」

 先週、割烹「きくすい」へ行った。このときの話を書こうと思っていたが、それはまたの話にする。

前に書いた「紅葉狩り」を書いているとき、観世流の謡本を読んでいると、「恥ずかしながらも袂に縋り(たもとにすがり)留むれば、・・・・・、所は山路の菊の酒なにかは苦しかるべき・・・・・」という謡が出てくる。紅葉に袂にすがられて、維茂が引き返して酒宴に加わる場である。ここで、はて、「菊の酒」とはいかなる酒かと訳注を見れば「菊水の酒」とある。

「菊水」については、広辞苑を調べると、中国の故事で「ある川の崖にある菊の露が川にしたたり落ちて、その水を飲めば長生きする」という⇒菊慈童(きくじどう)とある。もう一つは「紋所の名、楠木氏の家紋として名高い」となっている。確かに楠木正成の家紋や旗印は菊水の紋である。
古語辞典を見てみると、
きくすゐ[菊水]—-「菊のしたみづ」。菊の下を流れる水、これを飲めば長生きするという。

いずれにせよ、菊の花を浸した酒を飲めば長生きをするという言い伝えから、重陽の節句(旧暦9月9日:菊の節句)に菊酒を飲むことと深く関係しているようだ。

「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 芭蕉

「山川の菊のしたみづいかなれば ながれて人の老いをせくらむ」 新古今和歌集717 藤原興風

など、数多くの歌が残っている。

謡曲「紅葉狩」に出てきた「菊の酒」は山中で飲んだ酒で中国の故事「菊慈童」に例えており、七五調の韻を踏むために、「菊の酒」としたものと思われる。

「菊水」の出てくる「菊慈童」というのは「紅葉狩」と同じく謡曲である。能の流派によっては「枕慈童」とも云っている。
「菊慈童」は謡曲としては短い謡で1000文字程度である。是非とも原文を読んで謡曲の雰囲気をあじわっていただきたい。観世流の謡を要約すると以下のようなものである。

『酈縣山(れっけんざん)という山の麓から薬水が涌き出たという噂を聞きつけた魏の文帝は、臣下を遣わし、その源を見てくるよう命じた。
 勅命を受けた臣下が山に入ると山奥に庵があり、中から異様な姿の童子が現れた。
 このような狐狼野干(ころうやかん)の住むようなところに何者かと問うと、周の穆王(ぼくおう)に仕えていた慈童だと答えた。周の時代といえば、魏よりも数代以上も前になる。七百年も昔の者がどうして今まで生きているのかと怪しむと、慈童は却ってその事実に驚く。この山に配流となった身であったが、穆王より賜わった枕には二句の偈(げ:韻文の形で記した経文)がしるされており、その偈を菊の葉に書き写したところ、その葉に置く露が滴り流れて、不老不死の霊薬となった。その水を飲みつづけていたため、七百歳を生きていると云う。
 慈童は菊水の流れを汲み、勅使に勧め、自らも飲みはじめる。菊水はいかに飲んでも尽きない酒で、やがて酔い伏してしまうが、目覚めた時、七百歳の寿命を文帝に捧げると、また仙家へと帰っていった。』

この「菊慈童」という謡曲の題材は「太平記」巻13「龍馬進奏の事」に由ったもので、太平記の中では次のように記述されている。

『昔、周の穆王のとき、穆王は8頭の天馬を持っていた。王はこれらの馬に乗って、あらゆる所に出かけた。そして、あるとき、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)で法華を説く釈迦に会うことが出来た。穆王は仏の道に深く帰依して、釈迦より八句の偈(げ)を授けられた。このことはずっと王の心の中に秘して、世に伝えることはなかった。
 この頃、穆王は慈童という童子を寵愛し常に傍らに侍らせていた。
 あるとき、穆王が留守のときに、慈童が誤って王の枕の上を跨いでしまった。群臣が合議して「このような罪は決して浅くはない。本来ならば死罪にあたいするが、誤ってしたことであるから、流罪とする」と決定して、王に奏上した。王はやむなく慈童を障モ縣山に流した。この酈縣山は都より300里、山深くして鳥も鳴かない。雲が蔽い、虎狼が群生するような所で、この山に入った者が生きて帰ったことはないと云われていた。
 穆王は慈童を哀れに思い、釈尊より授けられた八句の偈(げ)のうち普門品(ふもんぼん)にある二句の偈を、ひそかに慈童に授け、「毎朝、十方を一礼して、この経文を唱えなさい」と教えた。
 慈童は酈縣山の深山幽谷に流されるが、王の言い付けを守り、毎朝、授けられた経文を唱えるようになった。また、もし、忘れるようなことがあってはならないと思い、傍らにあった菊の葉にこの経文を書き付けておいた。
 あとで、この菊の葉に置いた露が、わずかに落ち、流れる谷の水に滴って、その水がすべて天の霊薬と変った。慈童が喉が渇いて、その水を飲んでみると、味は甘露のごとく、何物よりも美味しかった。さらに天人が花を捧げに来、鬼神が手を束ねて奉仕するようになった。かくして虎狼悪獣の恐れも無くなり、慈童は羽が生えて仙人に変った。
 加えて、この谷の水が下流に流れ、そのあたりに住む三百余りの家々の住民たちまで病が治り、不老不死と云われるまで長寿となった。
 その後、時代が代わり、八百数余年後も慈童はなお少年そのままの姿を保ち、老いることもなかった。そして、魏の文帝のときに彭祖(ほうそ)と名を替えて、この術を文帝に授けた。文帝はこれを受けて菊花の盃(さかづき)を伝えて、万年の寿を祝った。今の重陽の宴はこの故事に由来している。』

「菊水」というのは新潟の酒にもあるし、京都の祇園祭に使われる鉾にも「菊水鉾」というのがある。いずれも、この菊慈童の話を由来としている。

菊水の紋
   菊水の紋

紅葉狩り

妙義山 紅葉

 根戸エンジョイクラブの皆さんと一緒に、紅葉を見に妙義山へハイキングに行った。

 妙義山は標高は高くない。筑波山より低く856mでしかない。昨年秋のハイキングで登った奥日光の高山が1668mだから、本当の低山である。だが奇岩怪石に富み、険峻な岩山の尾根を縦断するのは北アルプスの穂高を登るより危険だと言われている。最も一般的なコースと言われる石門めぐりコースでさえ、クサリをたよりに登らなければならない。
 今回は紅葉見物が目的なので、中之岳神社から「関東ふれあいの道」をたどって妙義神社までのハイキングコースを歩くことになった。体力的には昨年の高山より楽であったが、岩だらけの道や狭いはしごがなどがあって、危険な場所も多かった。私はビデオ撮影をやったので、みんなの前に行っては撮影を始め、通り過ぎるまで撮影して、また追い越して先頭に行くの繰り返しだった。健康で、体重が軽いことの有難さを味わった一日だった。紅葉はやや早かったのかもしれないが、近所の皆さんと一緒にハイキングをするのも健康的で楽しいものである。

 行きのバスの中で、紅葉を見るのを何故、「紅葉狩り」というのだろう?という質問がでた。「狩り」というのは鹿狩りとかイノシシ狩りとかの狩猟か、いちご狩りやみかん狩り、きのこ狩りなどの実やきのこを採ってくることに使う。なんで紅葉狩りというのか素直な疑問になる。ここで思い浮かんだのが、内田康夫氏の作になる推理小説「戸隠伝説殺人事件」であった。この小説の中に、「紅葉狩」という謡曲が登場する。さらにこの謡曲のもととなるのが「戸隠伝説」である。この話を絡めて、何十年も前の戦争中にあった誰も知らない陰湿な事件がおおもととなって連続殺人事件が起こるという筋書きである。

 謡曲「紅葉狩」というのは『ある山で、上臈らしい女が侍女たちとともに木陰に幕を打ちまわして、紅葉狩りの酒宴をしていると、従者を連れて鹿狩りに来た平維茂(たいらのこれもち)が通りかかり、山中での女たちだけの紅葉狩りを不審には思ったが、興を妨げまいとの心遣いから、馬を下り、道を変えて、静かに通り過ぎようとすると、上臈が維茂を呼び留めて酒宴の仲間に誘い入れる。美人の酌に思わず盃を重ね、うっとりとして、終に維茂が酔い臥してしまうと、女たちは、そのよく寝入ったのを見届けて姿を消した。やがて、維茂の夢の中に神のお告げがあり、それに驚いて目を覚ますと、今までの女たちは恐ろしい鬼の本体を現して維茂を襲ってきた。然し、維茂は少しも騒がず、八幡大菩薩を念じながら立ち向かい、遂に鬼を討ち平らげる。』(「観世流初心謡本」より引用)という単純なストーリーである。謡曲の中ではそれだけだが、ここから、『紅葉の美しさを愛でて山を探索したり、宴席を設けたりすることを「紅葉狩り」というようになった』とバスの中で説明した。

 この鬼女「紅葉(もみじ)」について、戸隠の鬼無里(きなさ)に伝わる「紅葉伝説」というのがある。

◇美貌と才知に恵まれた姫の末路
 平安の昔のことです。承平二年奥州の会津に生まれた少女呉羽(くれは)は子のなかった夫婦が魔王に願って生まれたためか輝く美貌と才知に恵まれて育ちました。やがて紅葉と名を改めた彼女は、両親と共に京の都に上り美しい琴の名手として都中の評判になり、源経基公の寵愛を受けるようになりました。
 しかし紅葉は正妻を呪術で除こうとして事が露見し信州・戸隠山へ流されてしまいますが、都への思いが断ち難く配下を集めて力を貯えます。これを聞いた朝廷は、平維茂を追討に差し向けますが住処もわからず、神に祈って矢を放った維茂は落ちた方角に進みます。待ち構えた紅葉たちは美しく装って毒の酒をすすめたところ維茂に見破られ、鬼女の正体を現したところを討たれて果てました。……戸隠では、紅葉ゆかりの地が数多く残されています。

(以上、「紅葉伝説」は戸隠・鬼無里のホームページより引用)

 妙義山ハイキングは好天にも恵まれて、無事、妙義山神社に着いた。残念ながら妙義山神社は修復中で日光東照宮に似た立派な社を見ることができなかった。その近くの日帰り温泉でゆっくり風呂に入り、お酒を飲んで帰った。

鬼女  紅葉と平維茂

ネヴィル・マリナー

N響ロマンティックコンサート

 一月に「ニューイヤーコンサート」を聴いて以来、久しぶりにコンサートを聴くため、サントリーホールに行った。平日なので午後7時という遅めの開演であった。N響のロマンティック・コンサートということと、ネヴィル・マリナーの久しぶりのN響指揮で大ホールが満席となっていた。
サントリーホールも9月に大改装を済ませたばかりである。私の席も一階席の真ん中で音の響きも良かった。
 曲目はヴィバルディの「四季」とモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」で83歳のマリナーさんにぴったりの組み合わせである。「四季」はヴィバルディの協奏曲集「和声と創意への試み」全12曲の中の最初の4曲「春」「夏」「秋」「冬」の総称である。協奏曲とは言っても、バイオリンソロと弦楽器だけの小編成オーケストラによって演奏される。今回のコンサートでは、N響ソロコンサートマスターの堀正文さんのバイオリンとマリナーさん指揮のN響弦楽アンサンブルによって演奏された。最近はやりの古楽演奏法ではなく通常のモダン演奏法で、しかもポピュラーな名曲だったためか、ソロ奏者、指揮者、各弦楽パートが聴衆と一緒に楽しむ和やかな演奏会となった。もう一つの「ジュピター」はモーツァルトの最後の交響曲だ。モーツァルトの交響曲の中では大規模編成のオーケストラで演奏されるのが普通であるが、今回はマリナーさんの手兵であるアカデミー室内管弦楽団と同程度の小編成での演奏であった。聴きなれている名曲ではあるが、新しいサントリーホールの最も良い席で聴いたせいか、すばらしい音にひとり包まれたような響に酔ってしまった。オーディオ装置で聴いているのとはもちろん違うし、どこの席で聴くかによって随分違うことを感じた。

 ネヴィル・マリナーはものすごい数のCDやレコードを出していて、そのレパートリーも広い。その数はカラヤンにも匹敵するくらいだ。
ほとんどが、彼が創設したアカデミー室内管弦楽団(正式にはThe academy of St.Martin in the fields)を指揮したもので、ハイドンやモーツァルトあたりが中心になる。彼自身は映画「アマデウス」の音楽監督、およびその指揮で有名になったとおっしゃっておられるようだが、それは謙遜であろう。彼の音楽はどのようなオーケストラを相手にしても、極めて中庸、おだやかで奇をてらうようなことはない。私にとってのネヴィル・マリナーの印象はイギリス出身の作曲家ホルストの「惑星」をアムステルダム・コンセルトヘボウを指揮して演奏したLPレコードの影響が大きい。この演奏は今でもCDとして出されている。派手さはないが、雄大な演奏でコンセルトヘボウの特徴をよく引き出している。最近、同じイギリス出身のサイモン・ラトル指揮「惑星(冥王星つき)」がベルリンフィルの演奏で出されているが聴き比べてみるとその違いがよくわかると思う。
 もう一つは中央公論社から出された「モーツァルト大全集」の中の前期交響曲集である。これはLPレコード190枚という膨大なものであるが、当時演奏されることの少なかったモーツァルトの初期、中期の交響曲のういういしさがとても清々しく感じられたレコードである。
 よく調べてみたら諏訪内晶子さんがデビューした最初のCDがブルッフ作曲の「ヴァイオリン協奏曲第1番」と「スコットランド幻想曲」、ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズとの共演であった。ちなみに私は諏訪内晶子さんのフアンで、当然、このCDも持っている。

 余談ではあるが、去年のNHK音楽祭でイギリスのロジャー・ノリントン指揮でN響演奏のモーツァルトを聴いた。これはノン・ヴィブラート奏法を使って、N響の実力を遺憾なく発揮したすばらしい演奏であった。
 余談のついでに、イギリス出身で私が大好きな指揮者としてコリン・デイヴィスがいる。彼がアムステルダム・コンセルトヘボウを指揮して演奏したストラヴィンスキーの「春の祭典」は私が所持しているレコード、CDの中では最も好きな曲である。

ネヴィル・マリナー 「惑星」ポスター 若きネヴィル・マリナー

エッセイを楽しむ

 「お悔やみに行くのよ、つらいわ」。そう言ってお隣の奥さんが坂をおりて行った。その喪服のうしろ姿を見て、「黒っていいな」と思った。
 喪服の女が美しく見えるのは定評があるけれど、しかし、潤んだ心と伏せたまぶたがあってこそ、はじめて黒の喪服がものを言うので、黒は気持ちで着る色だと、つくづく思う。
 白も黒も、のっぴきならない色である。白は気高く潔癖で、黒は内にひかえて沈む色。西洋では粋な色とされている黒も、日本では政治の黒幕、腹黒いやつ、相撲の黒星、犯人は黒か白かなどと、ろくな形容には使われないし、せんじつめれば抹香臭く、しょせん黒は凶に通じる色である。
 着こなし上手といわれる人にも、黒はなかなかの難物である。若い人には似合わないし、乱暴に着ればやぼになる。人生の雨風をくぐった年輪を、黒一色で生かすか殺すかは、その人のセンス一つである。つまり、黒は一癖も二癖もある人の着る色といってしまえば、黒が似合うというのは、あまり自慢にもならないことかもしれない。いずれにしても、黒を着るのはちょっと「かくご」のいることである。

-------------------------------------------------------------------------------------—

 上記文章を読んで、どこかで読んだと思われた方もいるかもしれない。この文章は昭和34年9月8日づけ『朝日新聞』の「きのうきょう」というコラムに掲載された、高峰秀子さんが書かれたエッセイである。
 この文章が一躍有名になったのは、昭和35年、東京大学の国語の入学試験問題に出されたからである。有名になったと言っても、その後に、国語の受験勉強をしていた受験生の間だけかもしれないが。ほぼ私と同年代以降の人たちである。その当時、私はこの文章はなかなか親しみやすく、「味」のある「粋」な文章だと思った。
 高峰秀子さんと言えば、「二十四の瞳」や「喜びも悲しみも幾年月」など多くの映画に出演され、だれでも知っている大女優である。どちらかと言えば文章とか学問とは無縁の人である。同じ『朝日新聞』でも「天声人語」からは多くの文章が試験問題に引用されている。
この高峰秀子さんの文章も東大の先生が選んだくらいだから、良い文章にちがいないと思う。
 この文章に「味」があって「粋」が感じられるのは何故だろう。多分、文の構成と文体の歯切れの良さから来ているものと思われる。高峰秀子さんの人そのものから自然に湧き出た感性が文章に表れているのかもしれない。
 この文章は3文節に分かれているが、第一文節は筆者が思ったそのままの感情を書いている。高峰秀子さんの静かで美しい喪服姿が連想される。第二文節では黒という色を彼女が普段着のままのときのベランメー調でコテンパンにやっつけている。
 第三文節では冷静に黒を着ることの難しさを、女優としての彼女の経験から、彼女自身の意見として述べている。
 エッセイのような文章を書くのをそんなに難しく考えることはない。ここに挙げた高峰秀子さんの文章のように、すなおに感じたことを書き、一般的にはこう言われているが、なぜそうなんだろうと考え、そして自分の意見を述べればよい。パソコンを使えば、いきあたりばったりで書いても、つじつまを合わせるのは簡単だ。その文章の変化していく過程を見るのが実に楽しい。
 ブログの記事を書くために、文章の書き方を勉強している中で、たまたま見つけた懐かしい文章を読んで、「文章の書き方とはこんなものか」と、思ったことをそのまま書いてみた。

高峰秀子

(補筆)

◇文章の書き方にはいくつかあるが、論文などで使われる「序論・本論・結論」という書き方。一般的な著作物で使われる「起承転結」という書き方。もう一つ、この高峰秀子さんの文章のようなエッセイなどに用いられる「序・破・急」という書き方がある。(参照:扇谷正造著「現代文の書き方」講談社現代新書)

◇「無粋」ではあるが、東大の入試問題はつぎのようなものであった。

この文章を読んで、

1.「黒の喪服がものを言う」というのは、どういうことなのか。
2.黒を着こなせる人を、筆者はどのように評価しているのか。簡潔にしるせ。
3.「黒をきるのはちょっと『かくご』のいることである」とあるが、どんな「かくご」がいるというのか。

◇高峰秀子さんは現在でもエッセイストとして活躍しておられる。エッセイを書くことを楽しんでおられると思う。以下、彼女の主な著作を紹介する。

わたしの渡世日記〈下〉 (文春文庫)コットンが好き (文春文庫)台所のオーケストラ (文春文庫)わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)

梁(やな)の風景

 

高瀬観光やな

家のリフォームが終了し、暑い夏が過ぎて、余裕のできたところで、久しぶりに塩原温泉に行った。10月半ばでまだ紅葉の時期には早く、道も空いていた。国道294号線をひたすらまっすぐ行って、黒羽の手前で国道400号線に折れるコースを採った。途中、茂木を過ぎて、喜連川方面から流れる荒川が、那珂川に合流する手前にある「一ツ石観光やな」に立ち寄った。
那珂川には多くの観光やながある。少し上流にある「高瀬観光やな」と下流にある「大瀬観光やな」が大きくて有名である。
「一ツ石観光やな」はそれほど大きくはないが、国道のすぐそばにあり、食事をするには便利で、見晴らしも良い。
梁で取れた天然鮎の塩焼き3本がつく鮎定食が1200円で昼食には手頃である。梁の風景を見ながら心地よい川風をうけて産卵前の香ばしい鮎をいただいた。
鮎は釣りで獲るのが最もポピュラーだが、投網で獲ったり、長良川で有名な鵜飼いや、梁漁で獲るのも伝統的な方法である。いずれの漁法も鮎を資源として保護するために禁漁期間が設けてある。梁漁も6、7月から10、11月までである。「やな」というのは「簗」とか「梁」と書くが、川に竹や丸太、石かご、砂利袋などを用いて、水流をさえぎるように張って、中央に簀棚(すだな)を設け、泳いでくる鮎などを捕獲する仕掛けである。6月頃に設置して11月には撤去する。
鮎は縄張りを持っていてその中の川底にある石などに付着する藻類を食べて生きる。10~11月に川底に産卵し親は死ぬが、孵化した稚魚は海に下り、プランクトンを食べて越冬する。翌春3~5月に、生まれた川に上る習性を持っている。大きな梁を毎年作り直すのは、この鮎の習性を利用して保護するためである。
梁が川幅全面に張られても、鮎が一網打尽で捕獲されないのは、縄張りを持つという習性があるからだ。梁の近くには、梁を張るための大きな石がたくさんころがっている。その石に藻類が付着し、鮎にとっては棲みやすく卵を産むにも絶好の場所となる。梁の近くに釣り人が多いのも、そのためである。鮎にとっては棲みやすいが危険な場所でもあるのだ。
この梁漁というのは歴史が古く、弥生時代にはすでにあったという。万葉集の中でも3首の歌が詠まれている。

◇「安太人(あだひと)の 梁(やな)打ち渡す 瀬を速み 心は思(も)へど 直に逢はぬかも」 (巻11-2699 詠み人不詳)
(訳)阿田の川人(カワト)が梁を打ち渡す瀬は流れが速く渡れないように 、渡れない逢瀬に心思うばかりで、じかに逢うことのできないもどかしさよ

◇「この夕(ゆふへ) 柘(つみ)の小枝(さえだ)の 流れ来ば 梁(やな)は打たずて 取らずかもあらむ」 (巻3-386)
(訳)この夕べに、もし仙女の柘の枝が、流れてきたら、梁は仕掛けていないので、取らずじまいになるのではなかろうか

◇「いにしへに 梁打つ人の なかりせば ここにもあらまし 柘の枝はも」 (巻3-387)
(訳)むかし、梁を仕掛けて柘の枝を取った味稲(うましね:補筆参照)のような人がいなかったら、今も此処にあるはずの柘の枝よ・・・自分もその柘の枝の仙女に、逢えただろうに・・・

二番目と三番目の歌は若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が宴席で詠んだ歌で柘枝(つみのえ)伝説について歌ったものである。
万葉集に歌われている梁はいずれも奈良の吉野川に張られた梁である。また、柘の小枝ではないが、梁は川に流れる木の枝やゴミなども堰きとめることができるので、川を清浄化するのにも役立っている。
毎年、梁をつくりなおすときは、漁業関係者や釣り人など多くの人が協力して行われる。このようにして、古人(いにしえびと)の知恵を受け継ぎながら川の営みを見つめ続ける梁のそばで、この伝統的な漁法で獲れた鮎の塩焼きをいただくのもまた風流かつ楽しいものである。車で来なければ、お酒も楽しめるのだが。
「一ツ石観光やな」のビデオを撮影したあとは、国道294号線で、途中、「高瀬観光やな」を通り過ぎ、那須塩原温泉へ向かった。温泉の宿は空いていて、のんびりとした夜を過ごした。

つみ

(補筆)◇柘枝(つみのえ)伝説
昔、吉野に美稲(うましね)という男がおり、吉野川に梁を打って鮎を獲って世を渡っていた。ある日、上流から柘(つみ)の枝が流れてきて梁にかかったので、取って持ち帰って家に置いたところ、美麗な仙女に変わった。ついに夫婦の語らいをし、老いず死なずに共に暮らした。
その後、女は羽衣を着て仙界に帰り、美稲もまた、共に仙界へ去ったと言う。この伝説は「かぐやひめ」の原型の一つとも言われている>

NOVA我孫子校がクローズ

NOVA我孫子校  閉鎖のお知らせ

1998年4月に開校したNOVA我孫子校が今年の9月末でなくなった。我孫子校は柏や取手など他のメインな学校に比べると静かで生徒のまとまりも良かったと思う。
 私は1998年の9月に入学したので、開校してすぐに入ったことになる。そして、今年の8月末にVOICE会員の期限とチケットが無くなり、次はどうしようかと思っていたところで閉鎖のうわさを聞いた。だから、私はNOVA我孫子校がある間のほとんどは生徒だったことになる。9年間のうち6年間はずっとレッスンを受けていた。入学したときのレベルは6でレベル3になって一年ほどレッスンを続けたが、もうこれ以上は無理と思いVOICE会員になった。
 今日、我孫子校の写真を撮ってきた。エレベーターには閉鎖の挨拶が書いてあった。「諸般の事情により、皆さんは取手校に行ってください」と、さらに、追伸で「取手校がいっぱいになったので柏校にも行けるようにしました」と書いてあった。NOVAのホームページを見ると、天王台校やモラージュ校、イオン柏校などのサテライト校は閉鎖しないようだ。なんで我孫子校だけが閉鎖されるのかよくわからない。やはり、円の価値下落で日本に来る外人が少なくなったのか。そう言えば前から取手の先生が少なくなって我孫子校から応援に行っていた。
 今の日本は政治的にも不安定だし、またもや、経済的にもどんどん悪化するのかな。結局、この前の送別会が我孫子NOVAの解散会となった。私の場合はほとんどNOVAをやめることにしてたのだから、「まあいいか。海外に遊びに行くことにするか。そこで勉強しようっと」という気持ちになった。

 (追記)10月26日にNOVAが会社更生法の適用を申請しました。送別会でお別れしたBさんはちゃんと給与を貰って帰ったと思うけど、残ってた他の先生たちはどうするんだろう。NOVAで働いている先生方は皆さん真面目で良い人ばかりでした。日本に対して悪いイメージを与えなければ良いと思います。それに、授業料を納めてまだレッスンを消化していない生徒たちも心配だろうなと同情します。早く後をフォローする経営者が出てくれればと祈っています。

「フラガール」

 土曜日の夜、テレビで「フラガール」を放映した。地デジでは初めてだと言っていた。丁度NOVAの送別会で見れないので録画しておいた。昨年10月に映画を見て感動したので、DVDが欲しいところであった。
 ストーリーは常磐ハワイアンセンターが設立されるときの実話をもとにしている。昭和40年の話であるが、エネルギーが石炭から石油にかわり炭鉱が閉山の危機にあえいでいた。昭和30年代の初期は黒いダイヤと呼ばれるほど石炭産業は全盛を極めていた。工業化の波でエネルギー源として石炭は最も重要とされていたのである。ところが、蒸気機関車からディーゼルカーや電車の時代になり、さらに鉄道から自動車の時代に変わるにつれ、石炭が石油に取って代わられるようになった。

 常磐炭鉱は現在の福島県いわき市に存在する全国的にも有名な炭鉱であった。首都圏にも近く多くの炭鉱夫を抱えていたが、時代の流れには勝てず閉鎖の危機にさらされていた。少しでも多くの従業員を救うための一つの案として、一大プロジェクトが進められていた。それが常夏の楽園、ハワイをテーマとしたレジャーランドの設立である。従業員は炭鉱の従業員とその家族から採用しようというものだった。幸いにも、炭鉱としては弊害となっていた地下から湧き出す温水が豊富にある。それを利用して、温泉を中心とした、椰子の木などの熱帯植物の生育が可能なレジャー施設、すなわち常磐ハワイアンセンターの設立であった。

 レジャーランドとしてはただ単に温泉や熱帯植物園では物足りない。そこで、ハワイをイメージした常磐ハワイアンセンターの目玉として考えられたのが、フラを中心としたハワイアンダンスショーだったのである。
当時、フラダンスを日本人がやるというのはかなりの抵抗があった。しかも、ダンサーは常磐炭鉱の従業員の娘たちでなければならない。これがこの映画を面白くしているところであるが、実際にあった話である。

 東京から一人の女性がハワイアンダンスを教育するために招聘された。もとSKD(松竹歌劇団)でダンサーとして活躍していた平山まどかさん(実在:映画では松雪泰子が好演)である。
 まずダンサー候補生の募集から始まり、基礎からの訓練、合宿生活と厳しい練習が始まった。炭住(炭鉱住宅)に住む親たちからの反対、成果が見え始めてからの協力のもとで生徒たちは着実に成長していく。
そして、ハワイアンセンターのオープンを向かえ、大成功のもとにこのプロジェクトは完了する。

 映画のシーンでの圧巻は最後のセンターオープン時のフラガールたちのすばらしいハワイアンショウのシーンである。主役の蒼井優の熱演である。よくぞあそこまですごい踊りができたものだと思うほどであった。フラでもいきなり後ろに倒れ、しばらくしてむくむくと手もつかずに起きてくる技術は高等技術だ。どのダンサーも若いとは言え、腰の動きがすばらしい。衣装も通常のフラとは違い、タヒチアンダンスが中心となっていて、動きの速い、きらびやかな踊りとなっている。

 私が最初に常磐ハワイアンセンターでハワイアンダンスを観たのは昭和41年の秋である。大学を卒業して就職した会社の最初の職場旅行だった。常磐ハワイアンセンターが設立後間もない頃である。確かに炭鉱夫の娘たちがフラダンスを踊るというのが売り文句だったことを記憶している。映画に出てくるぼた山や炭住は私が育った佐賀県でも小さい頃はたくさんあった。ぼた山は今は緑に覆われ、すっかりその面影はなくなっている。

 この常磐ハワイアンセンター、現在では大きな宿泊施設もできて名称もスパリゾートハワイアンズに変わってはいるがこの5~6年でも何度か宿泊している。去年、今年は混んでいるかもしれないが、また行ってみたくなった

「どんど晴れ」

4月から始まったNHKの連続テレビ小説「どんど晴れ」もめでたしめでたしで終りましたね。

ほとんど欠かさず見てましたが、盛岡の市内がほとんど出てこなかったような気がする。

連続テレビ小説、いわゆる朝ドラは毎朝放送されるので、私のような時間に縛られない人間には生活を規則正しくしてくれる良い番組だと思っている。

佐賀の酒と料理

きくすい  きくすいの店内
 
 昨晩、W君と一緒に町屋の小さな割烹に行った。いつもは船橋で、スパニッシュやタイ料理を食べてワインを飲むのだが、W君の「たまには佐賀の酒を飲もうよ」ということで彼がネットで探してくれたのが、町屋と渋谷の店で、どちらも駅から遠そう。町屋だったら、駅までは千代田線で比較的近い。ネットで調べたら駅から10分と書いてあったが、速足で10分程度。いつもウォーキングをしているのでこの位の距離はとくに問題はない。路地裏に入って少し行くと店の明かりが見えた。店の名前は割烹「きくすい」という。外見もこじんまりとしていて綺麗だが、中に入ったらすごく立派な店で靴を脱いで一段上の床に上がろうとしたら、そのままでどうぞと言う。若くてよか男の旦那と別嬪の奥さんが迎えてくれた。ずいぶん歩いたと言ったら、「どちらからいらっしゃったんですか」と聞くので「佐賀から」と冗談を言って「なかなかよか店ね、佐賀ん人のよう来んさんね?」と佐賀弁を使ったら、あちらも佐賀弁で応えてくれた。
 酒は「窓の梅」がメインのようだが、他にも「天山」や「東一」などの佐賀の酒や焼酎も飲めるという。昨晩は「窓の梅」の本醸造をぬる燗で飲んだ。家の近所の料理屋でよく飲む辛口の日本酒より喉越しがすっきりとして旨いし、丁度良いぬる燗だ。料理も刺身が新鮮だし、がん漬けも出してくれた。我々二人とも酒は強いので、源右衛門のさかずきでずいぶん飲んだ。料理の器も源右衛門を中心に有田焼で揃えている。
 佐賀では「三右衛門」と呼ばれる陶磁器のブランドがあるが、通常は酒井田柿右衛門、今泉今右衛門、それと唐津焼の中里太郎右衛門を「三右衛門」と称している。但し、唐津焼は有田焼とは異なり陶器であるため、磁器のブランドとして太郎右衛門の代わりに館林源右衛門を「三右衛門」とすることも多い。
 この店のご主人は佐賀県武雄市の出身で、武雄温泉の話も出た。やはり佐賀県では嬉野温泉が有名だが最近は武雄温泉も賑やかさを取り戻しているという。佐賀北高校のエース、久保君は武雄から通っているそうだ。佐賀北高校を母校としているW君と私が一緒になると当然のことながらあの優勝を勝ち取ったときの感動を分かち合うことになる。ご主人、奥さんともに気さくで穏やかな人たちで佐賀や佐賀北高の話で盛り上がった。それと、もう一つは「佐賀のがばいばあちゃん」の話である。私はこの本に登場する小学校と中学校を卒業している。この小説の主人公は中学校を卒業して野球推薦で広島の広陵高校に進学している。
 ご主人や奥さんと佐賀弁を混ぜながらの会話も心地良い。店が綺麗で酒も料理も旨い。駅からいささか遠いのが難点ではあるが、何度でも行きたい店である。

AAFCコンサート

イデアルウインドアンサンブル
AAFCコンサート  AAFCコンサートプログラム

 昨日、AAFC主催でライブコンサートが我孫子けやきプラザで開かれた。二部構成で、一部が吹奏楽団体のイデアルウインドアンサンブルによる生演奏で二部がAAFCのメンバーによる「オーディオ聴き比べ」であった。
 私もAAFCのメンバーで、開演前に行って手伝わねばと思い、少し前に行ったが、すでに観客がずいぶん並んでいた。先着50名様にCDプレゼントとなっていたためであろう。
 開場が午後1時だが、AAFCの他の皆さんは11時頃に来て準備作業をしていたらしい、わたしも遅ればせながら入場の案内などをやった。イデアルウインドアンサンブルの演奏はさすがにプロだけにすばらしい。息子が大学で吹奏楽部に入っていたので何度か生演奏も聴いたことがあるが、学生の演奏とはまるで違う。トランペットも流暢に良く鳴っていた。
 前半はクラシック、後半はポピュラーミュージックで、途中楽器の紹介が行われた。みなさん手馴れたもので、あっという間に楽しい1時間半がすぎた。
 第二部まで休憩時間があり、CDプレゼントの係りを手伝った。当初50枚としていたが、全部で80枚くらいになった。 第二部の「オーディオ聴きくらべ」はまず第一部で録音した演奏をオーディオで聴く試みであった。やはり生演奏の迫力にはとてもかなわない。
 次にいろいろなCDを、AAFCのメンバーが作成した基盤一枚の自作アンプとメンバー所有の50Kg級アンプとの聴き比べをやった。自作アンプはディジタルアンプで大型スピーカーも余裕でドライブできた。音質的にもほとんど差がない。後で聞いた話であるが、けやきプラザのホールにオーディオ機器を設置したばかりのときはとても聴けないような音だったそうだ。それが、約250名程度の観客が入って、すばらしい音に変身したという。まさに有山麻衣子の幻のコンサートと同じ理屈のようだ。 コンサートが終って後片付けの後にAAFCのメンバーで打上げ会をやった。20名程度の参加者が集まったが、楽しい一日となった。