先週、割烹「きくすい」へ行った。このときの話を書こうと思っていたが、それはまたの話にする。
前に書いた「紅葉狩り」を書いているとき、観世流の謡本を読んでいると、「恥ずかしながらも袂に縋り(たもとにすがり)留むれば、・・・・・、所は山路の菊の酒なにかは苦しかるべき・・・・・」という謡が出てくる。紅葉に袂にすがられて、維茂が引き返して酒宴に加わる場である。ここで、はて、「菊の酒」とはいかなる酒かと訳注を見れば「菊水の酒」とある。
「菊水」については、広辞苑を調べると、中国の故事で「ある川の崖にある菊の露が川にしたたり落ちて、その水を飲めば長生きする」という⇒菊慈童(きくじどう)とある。もう一つは「紋所の名、楠木氏の家紋として名高い」となっている。確かに楠木正成の家紋や旗印は菊水の紋である。
古語辞典を見てみると、
きくすゐ[菊水]—-「菊のしたみづ」。菊の下を流れる水、これを飲めば長生きするという。
いずれにせよ、菊の花を浸した酒を飲めば長生きをするという言い伝えから、重陽の節句(旧暦9月9日:菊の節句)に菊酒を飲むことと深く関係しているようだ。
「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 芭蕉
「山川の菊のしたみづいかなれば ながれて人の老いをせくらむ」 新古今和歌集717 藤原興風
など、数多くの歌が残っている。
謡曲「紅葉狩」に出てきた「菊の酒」は山中で飲んだ酒で中国の故事「菊慈童」に例えており、七五調の韻を踏むために、「菊の酒」としたものと思われる。
「菊水」の出てくる「菊慈童」というのは「紅葉狩」と同じく謡曲である。能の流派によっては「枕慈童」とも云っている。
「菊慈童」は謡曲としては短い謡で1000文字程度である。是非とも原文を読んで謡曲の雰囲気をあじわっていただきたい。観世流の謡を要約すると以下のようなものである。
『酈縣山(れっけんざん)という山の麓から薬水が涌き出たという噂を聞きつけた魏の文帝は、臣下を遣わし、その源を見てくるよう命じた。
勅命を受けた臣下が山に入ると山奥に庵があり、中から異様な姿の童子が現れた。
このような狐狼野干(ころうやかん)の住むようなところに何者かと問うと、周の穆王(ぼくおう)に仕えていた慈童だと答えた。周の時代といえば、魏よりも数代以上も前になる。七百年も昔の者がどうして今まで生きているのかと怪しむと、慈童は却ってその事実に驚く。この山に配流となった身であったが、穆王より賜わった枕には二句の偈(げ:韻文の形で記した経文)がしるされており、その偈を菊の葉に書き写したところ、その葉に置く露が滴り流れて、不老不死の霊薬となった。その水を飲みつづけていたため、七百歳を生きていると云う。
慈童は菊水の流れを汲み、勅使に勧め、自らも飲みはじめる。菊水はいかに飲んでも尽きない酒で、やがて酔い伏してしまうが、目覚めた時、七百歳の寿命を文帝に捧げると、また仙家へと帰っていった。』
この「菊慈童」という謡曲の題材は「太平記」巻13「龍馬進奏の事」に由ったもので、太平記の中では次のように記述されている。
『昔、周の穆王のとき、穆王は8頭の天馬を持っていた。王はこれらの馬に乗って、あらゆる所に出かけた。そして、あるとき、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)で法華を説く釈迦に会うことが出来た。穆王は仏の道に深く帰依して、釈迦より八句の偈(げ)を授けられた。このことはずっと王の心の中に秘して、世に伝えることはなかった。
この頃、穆王は慈童という童子を寵愛し常に傍らに侍らせていた。
あるとき、穆王が留守のときに、慈童が誤って王の枕の上を跨いでしまった。群臣が合議して「このような罪は決して浅くはない。本来ならば死罪にあたいするが、誤ってしたことであるから、流罪とする」と決定して、王に奏上した。王はやむなく慈童を障モ縣山に流した。この酈縣山は都より300里、山深くして鳥も鳴かない。雲が蔽い、虎狼が群生するような所で、この山に入った者が生きて帰ったことはないと云われていた。
穆王は慈童を哀れに思い、釈尊より授けられた八句の偈(げ)のうち普門品(ふもんぼん)にある二句の偈を、ひそかに慈童に授け、「毎朝、十方を一礼して、この経文を唱えなさい」と教えた。
慈童は酈縣山の深山幽谷に流されるが、王の言い付けを守り、毎朝、授けられた経文を唱えるようになった。また、もし、忘れるようなことがあってはならないと思い、傍らにあった菊の葉にこの経文を書き付けておいた。
あとで、この菊の葉に置いた露が、わずかに落ち、流れる谷の水に滴って、その水がすべて天の霊薬と変った。慈童が喉が渇いて、その水を飲んでみると、味は甘露のごとく、何物よりも美味しかった。さらに天人が花を捧げに来、鬼神が手を束ねて奉仕するようになった。かくして虎狼悪獣の恐れも無くなり、慈童は羽が生えて仙人に変った。
加えて、この谷の水が下流に流れ、そのあたりに住む三百余りの家々の住民たちまで病が治り、不老不死と云われるまで長寿となった。
その後、時代が代わり、八百数余年後も慈童はなお少年そのままの姿を保ち、老いることもなかった。そして、魏の文帝のときに彭祖(ほうそ)と名を替えて、この術を文帝に授けた。文帝はこれを受けて菊花の盃(さかづき)を伝えて、万年の寿を祝った。今の重陽の宴はこの故事に由来している。』
「菊水」というのは新潟の酒にもあるし、京都の祇園祭に使われる鉾にも「菊水鉾」というのがある。いずれも、この菊慈童の話を由来としている。
























