祝25周年あびこ舞台記念公演

 平成29年5月14日(日)に我孫子市湖北地区公民館で我孫子稲門会の相談役、飯牟礼一臣さん主宰「あびこ舞台」の創立25周年記念公演が開催された。
 私が我孫子市に住んで丁度40年になる。ペタンクの練習で湖北には車で何度も来ているが、この公民館に入るのは初めてで、駐車場がどうなっているのかもわからない。
 中に入ってみると、建物は古いが、中のホールは十分に広い。音響もこの前「源氏物語」を公演したけやきプラザより良いと思った。
 公演劇は「あびこ舞台」の代表的な劇作「あなた いいお月様ですね」と新規に企画された朗読劇「畝傍(うねび)消ゆ」である。前者はデイケアセンターの中を背景にして、認知症の方々を描いており、「人間の尊厳」をテーマとしている。後者は明治19年に発生した海難事故、軍艦「畝傍」の消失事件を朗読劇にしたものである。ちなみに「畝傍」の日本側艦長飯牟礼俊位(としたか)海軍大尉は飯牟礼劇団代表の祖先である。2本立てでご覧になると2時間ほどかかるが、じっくりとご覧になって下さい。 飯牟礼さんは現在81歳、いまだに新たな新規作品にチャレンジしておられる。

 鶴

木下付近を歩く

 史跡巡りの会、今回は成田線木下(きおろし)駅の付近を廻る。
 平日の昼間、1時間に2本の電車が走る、単線のまま取り残されたJR線だ。静かな住宅街を11人が適度なウォーキングを楽しんだ。
 木下は印西市の一部で、北総線の千葉ニュータウン中央駅の周りが開発されて多くのビルが林立しているのに対して、静かな地域で人通りも車も少ない。まず立ち寄ったのが木下万葉公園である。ここに木下貝層がある。12~3万年前まで関東平野の大部分が湾になっていて古東京湾と呼ばれている。千葉県の山岳部が筑波山あたりとつながって湾をなしていたらしい。この木下付近が砂層でそこに堆積した貝の化石が石のように固まって、貝層を形成したそうだ。町の中にこの貝層を切り出して作った石燈籠などが点在している。きれいな蕎麦屋で昼食をすましたがそこにも石灯籠があった。
 しばらく歩いて、利根川の土手に出る。この辺で、広大な利根川の景色を堪能し、手賀沼からの水が流れて、利根川と合流するあたりに出た。この周りは運河のようになっていて、好天と相俟って清々しい。
 ここから、船が出て、我孫子まで行けるという。お寺巡りより、桜の咲く前の春ののどかな日に、静かな水郷を歩くとは、これほど贅沢なことはないと思う。
                              2017年3月30日

木下貝層 貝層で作った灯篭

広大な利根川 手焼き煎餅屋さん店内

 

追悼 船村徹

船村徹

 カラオケ会で船村徹作曲集を配ると、「柿の木坂の家」、「王将」、「兄弟船」、「矢切の渡し」、「風説ながれ旅」、「みだれ髪」といろんな歌手の歌がどんどん出てきた。名曲ばかりだが、共通なのは船村徹の代表作であることだ。
船村徹は今年の2月16日に心不全で亡くなった。享年84歳。今回は、船村徹作曲の作品リストを持っていって、皆で歌おうということにした。得意不得意があるので、それにこだわることはないという前置き付きである。

 船村徹の本格的なデビュー作品は1955年の『別れの一本杉』である。まだ23歳であった。昭和30年のこの頃まで、日本は戦後の復興で中学校を卒業したばかりの若者が集団就職で都会へ都会へと向かった時代である。 都会に集まった若者たちは、きっと、その夢がはかなく消えて故郷に戻ってくる時代が来ると予想していた船村徹と親友の高野公男がキングレコードから出した歌が、「別れの一本杉」である。当時すでに「お富さん」で大歌手になっていた春日八郎が歌ってくれるというので、天にも昇るような気になったという。この歌はレコード枚数50万を超える大ヒットとなった。春日八郎のライバルともなっていた三橋美智也の「リンゴ村から」、青木光一の「はやく帰ってコ」など「ふるさと歌謡」がヒットし始めた時期である。(以上、2007年放送 「『日本歌謡黄金時代』春日八郎 三橋美智也」から)

 今回は、船村徹の代表曲『矢切の渡し』を入れる。この曲は元々ちあきなおみのために作曲した歌だが、のちに、細川たかしの歌がヒットし、レコード大賞を受賞している。
ちあきなおみの歌が、しっとりとしているのに対して細川たかしの方はカラオケ向けのハイキーの歌い方であまり好きではない

2017年新年会 新春落語を堪能

 今年の新年会はずいぶん気を使った。昨年のアコーディオン演奏、その前のマンドリン演奏と食事の前にやる出しものが今回は落語になった。 これまでのように、全員が揃って同じ大部屋に集まると、雑談が始まる。その中ではいかに上手い噺家であっても、話にならない。 いつもお世話になっている料亭「鈴木屋」さんと相談して、みんなの前にテーブルを置かない。ビールなど出さない。大部屋をそのまま使うのではなく座布団だけ用意することにした。襖で区切って、第一部の落語が終わってから奥の部屋に用意したテーブルを少し動かすだけですむようにしていただいた。
 会の始まる前に心配していた部屋を見て、びっくりした。演台の上には朱毛氈が敷かれ、その上に赤い座布団、客席は扇型に配置した40名分の座布団席になっていた。集まってきた皆さんも、何が始まるかと驚いたようだが、やはり相変わらずの雑談が始まった。

 落語は早稲田出身の真打、柳亭燕路師匠。稲門会の中では有名な噺家である。演目はご本人にお任せで、知らない。 噺の内容は、まくらで自己紹介やお弟子で今年真打になるという柳亭こみちさんの話、柳家と柳亭の違いなど、客席を和ませ、噺を聴かせる為の軽口で始まった。 柳亭燕路師匠は7代目になる。柳亭痴楽の弟子ではなく、柳家小三治(人間国宝)の弟子だそうである。早稲田のスクールカラーのえんじ色から名乗ったのではない。 次は落語ではオーソドックスな「江戸小噺」に移り、この頃になると客席も噺を聴くのに集中し始め、すっかり噺に乗ってきた。 後半は昔から口演されている「妾馬(めかうま)」、別名「八五郎出世」というおめでたいお話でおひらきとなった。
 会場の演台の高さが客席より一段高いが落語にはまさにぴったりで、燕路師匠にもご満足いただいたと思う。

開催2017年1月21日

超訳『源氏物語』現代版

 12月11日に我孫子市の「けやきプラザホール」で「源氏物語」が公開されました。我孫子稲門会の相談役、飯牟礼一臣さん主宰の市民劇団「あびこ舞台」が公演、飯牟礼さんが脚本・構成・演出を手掛けられました。また自らも出演、右大臣役をつとめておられます。
 さて、「源氏物語」、紫式部作で平安中期に書かれている、日本の代表的な小説で、日本人なら知らない人はいないほど有名です。ただし、有名なわりに原文で読むのはおろか、与謝野晶子をはじめとして、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴、田辺聖子といった有名作家の現代語訳でさえあまり読まれていません。それを「超訳『源氏物語』現代版」としてすべてを現代風に置き換え、ストーリーはほぼ原作に近いかたちでありながら分かりやすく2時間の演劇になっていました。演劇の展開は原典に忠実ですが、脚本、演出などに多くのギャグが入れられて客席からの笑い声が絶えません。
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  超訳「源氏物語」の公演を終えて         飯牟礼 一臣
 光源氏がジャズのリズムに乗って、背広姿にシルクハットで登場する超訳「源氏物語」。平成28年12月11日、我孫子駅前の「けやきホール」1日2回の公演には950名のお客様がご来場、大盛況の裡に幕を下ろすことが出来ました。
 初演は2年前。原稿用紙に換算して二千五百枚、登場人物四百数十人という世界に誇る大長編を現代版に変えて挑戦してみたものです。冒険と言うより無謀に近い挑戦でした。
 今回は光源氏の「愛の遍歴」と藤原一族70年にわたる生きるか死ぬかの「権力闘争」、この二つを絡(から)めて、分りやすくユーモアも加味して大幅に書き直しました。多くのお客様から「前回より一段と判りやすくなった」との評価を頂きました。
 あびこ舞台は今年で創立25年を迎えます。地味な活動でしたが、昨年10月、全国で元気に活動している70歳以上の人物を毎年10名顕彰する読売新聞社の「ニューエルダーシチズン大賞」受賞者の一人に選ばれました。
 この入賞で早稲田大学・鎌田薫総長から「早稲田の誇り」との祝辞と紅白のワインが送られてきました。この栄誉に応えるべく、更に精進を重ねたいと思っております。
 今年も5月に認知症老人の哀感をヒューマンタッチに描いた作品を、12月には地球温暖化と放射能汚染で二千年後に人類が滅亡するSFミュージカルを、それぞれ上演の予定です。ご来場頂ければ幸甚に存じます。
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 私のこだわりですが、この演劇を2017年の元日にホームページで公開することでした。映像をご覧になる方のことを考え、極力短くしたつもりですが、それでも1時間20分の大作になってしまいました。動画の撮影編集具合は恥ずかしいほどですが、我慢してご覧ください。
 

 執筆 鶴

2016年千葉県支部稲門祭

講演する菊間千乃さん曼荼羅チャート

 今年のイベントの中でも最も忙しい「早稲田大学校友会千葉県支部2016年稲門祭」がやっと終わった。
一昨年まではただ単に参加するだけでよかったが、昨年は写真撮影係で、食事をとる暇もない。今年は講演会の会場係、やることはほとんど無いに等しい。講演も懇親会にもゆっくりと参加できた。
支部稲門祭そのものは多すぎるほどの実行委員で、佐藤実行委員長を中心としたごく一部の委員を除いて、それほど忙しいとは思えない。ただ、千葉県内のいずこの稲門会も参加者集めにはかなりの負担を感じているようだ。我孫子稲門会では、一昨年は21名、昨年は18名の参加で、今年は19名の目標を与えられた。結果は18名になった。
我孫子の場合は設立後16年と歴史が浅いため、世代交代がまだはかばかしくない。今後会員の老齢化が進むと会員数も漸減していく恐れがある。

 さて、今年の千葉県支部稲門祭で最も印象に残ったのは、弁護士、菊間千乃(きくまゆきの)さんの講演であった。タイトルは「今の自分を超える」。
彼女が普通の弁護士だけであれば、このような場所で講演することはないだろう。前にフジテレビアナウンサーの経験があったからである。民放のテレビアナウンサーはNHKアナウンサーと違い、タレントなみに危険な仕事もやらされる。
1998年、「めざましテレビ」という番組で災害時の脱出実演を行いマンションの5階の窓から落下、マットにたたきつけられ全治3か月の大けがをする。1年後に復帰するが、これがきっかけとなって、弁護士になることを目指し本格的に勉強を始め、フジテレビを退職し2010年に弁護士資格を取得する。現在フジテレビの顧問弁護士でもある。

 講演の中で彼女が強調したかったのは「10年後の自分を考えて今行動する」ということである。小学3年生のとき早稲田大学に入る、小学校6年のときフジテレビのアナウンサーを目指そう。そしてフジテレビに入った後で会社に提出したレポートでは10年後に司法試験を受けると書いている。アナウンサー時代にも弁護士の夢は持っていたが、真剣に考えるようになったのは落下事故後のことである。代役となった人がまったく予定通りにその番組をこなしてしまったことだと云う。アナウンサーなんて仕事は言われたとおりにやれば誰でもできると考えたのである。仕事を続けながらロースクールに通いだしたが、司法試験に合格するのは無理だとわかり、退職。二回目の受験で司法試験に合格している。
理屈としてはわかるが、10年後の夢を描いて、その目標に向かって進むということは、現実的には極めて難しいことだと思う。よほど環境に恵まれ、教えられ、自分で考えるように躾けられないとできない。
10年前を振り返って、あのお陰で成功できたというのは簡単かもしれないけれど。将来に向かって今やるべき行動を決めるのは難しく、家庭や環境、他人との交流が大きく影響する。

 私の現役時代にはいろんなチャートを使っていたが、菊間さんが見せてくれたのは一般的には「曼荼羅チャート」と呼ばれる図だ。今最も人気のある日本ハムの大谷翔平選手を生んだ花巻東高校でも使われている目標設定シートである。彼女の目標設定シートをご覧いただければ、理解できると思う。さすがにアナウンサー経験者で講演の時間も予定通りピッタリと終わった。弁護士として重要な弁舌能力はアナウンサーの経験がずいぶん役に立っていると思う。また、彼女が持っている論理性も重要な資質である。次の10年後はどのような目標を持っておられるのだろうか。

 最後に、「今回は本当にご苦労様でした」とお礼を述べて「あれだけのご苦労をなさっても表には全く出る場がなかったですね」と言うと「しょせん、我々は黒子なんです」とおっしゃって笑っておられた、佐藤義章白井稲門会会長に敬意を表したい。

開催 2016/11/26   執筆 鶴

カイマナヒラ


11月から、これまで利用してきた「シダックス我孫子緑クラブ」が閉店となったので、今回は柏駅前クラブになった。予約したときは分からなかったが、カラオケ開催時点では、これまで使っていた店舗が「カラオケバンバン」に変わっていた。どちらが良いかは人によって異なるが、シダックス柏駅前店は駅からすぐ近く、車を使わなくても済み、アルコールを飲めるのが良い。一番大きな部屋を借りたが15人は余裕で使えるほどの部屋があってそれが最大の魅力だろう。今回集まったのは9名。十分なスペースだ。
千葉県支部稲門祭が開催され、その準備で気違いになるほど忙しく、このブログを書く暇がなかったので、どんな唄が歌われたかもほぼ忘れてしまったが、私がどうしても歌いたかったのはハワイアンで最も人気のある「カイマナヒラ」である。10月の大学稲門祭で恒例になっているハワイ民族舞踏研究会のフラの動画が、迫力があって綺麗なのでどこかのブログに投稿したかったからである。なんとか最後に歌えたのでYouTubeから画像を埋め込んだ。YouTube登録後1ヵ月で視聴回数560となっている。この手の動画としては珍しい。

開催 2016/11/07   執筆 鶴

 

「夜来香」 

 カラオケのとき、毎回、ホームページ用にカメラは持参するので、静止画はあまり気にしません。動画は何を入れるかが気になります。綺麗な動画で、印象的な歌というとなかなか難しくなります。
エイヤーのつもりで選んだのが李香蘭(リコウラン)の「夜来香」(イエライシャン)です。少し長くなるかもしれないのですが、李香蘭の話を入れておきます。

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 李香蘭は大正9年に中国、当時の満州の奉天で生まれた。本籍は佐賀県で、父も母も純粋な日本人である。父は奉天で日本人に中国語を教える教師をしていた。その当時の満州は中国人、日本人、ロシア人などが移住してきており、奉天は日露戦争以前のロシアの情緒が残る国際都市であった。昭和6年に満州事変、翌年の満州国建国と日本の軍部の圧力が強くなっていった時代に、彼女は幼い時期を過ごしている。
 李香蘭の本名は山口淑子。父の中国人の親友に頼まれ、その養女となって李香蘭という名前をもらった。養女といっても、日本で云う養子とは異なり、親友の証として、子供に中国名を名付けてもらうだけである。彼女は中国語と日本語を母国語として話せるようになっていた。小さい頃にロシア人の友達に紹介されて、イタリア人オペラ歌手から声楽の教育を受け、歌手として舞台に立つようになった。
 昭和12年に日中戦争が勃発し、満州国の国策映画会社「満映」が設立され、翌年、彼女は中国人女優「李香蘭」(リー・シャンラン)の名で映画女優としてデビューする。満映の狙いは、反日中国人懐柔策として彼女を使おうとしたのだが、幼い頃から教えられた、オペラの歌唱力と持ち前の美貌で、中国人の「歌う映画スター」となり、日中両国でスーパースターとして歓迎されるようになった。昭和16年の日本公演では、日劇の周りを7周り半もの行列ができるほどの熱狂ぶりであった。
 映画スターとしては満映に所属していたが、東宝、松竹、中華電影の映画にも主演女優として迎えられるようになった。とくに長谷川一夫と「支那の夜」などに共演し、日本でも大人気を博していった。これらの映画は日中友好を狙いとして作られたが、文化の違いで中国人からは反感を受ける結果となった。これが敗戦後に、中国人の売国奴(漢奸)として裁判にかけられ、あわや銃殺刑となる原因になっている。
 現在でもよく歌われている「蘇州夜曲」は映画「支那の夜」の主題歌として昭和15年に歌われるが、レコードは作曲者服部良一の所属するコロンビアから出されたため、渡辺はま子、霧島昇で少し遅れて出されている。
一方、「夜来香」は日中戦争終結間際の昭和20年5月に上海で開かれたコンサートで歌われ、中国人聴衆から大喝采を受けた。日本語歌詞は昭和25年にレコーディングされている。

執筆 鶴

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 下の写真は、引き揚げてからの李香蘭(山口淑子さん)の最も美しいカラー写真だと思います。その下のバーで、彼女が歌っている「夜来香」を聴くことができます。
李香蘭の半生についてはテレビドラマとして2回放映されています。また、劇団「四季」のミュージカルにもなっています。

山口淑子

テレビドラマでは李香蘭を沢口靖子が演じる「さよなら李香蘭」と上戸彩演じる「李香蘭」がありますが、新しい上戸彩版を掲載しました。上下巻合わせて4時間です。途中で適度に休んでご覧ください。

つい最近、この記事掲載の後にYouTubeに投稿された、上戸彩が歌ってしかも歌詞付きで映像も綺麗な動画を追加します。

戦国武将に学ぶ~真田三代生き残りの戦略~

真田信繁

 平成28年度我孫子稲門会総会の最大の呼び物は、静岡大学名誉教授文学博士、小和田哲男先生(1972年早稲田大学文学研究科博士課程修了)による上記講演であった。先生は、多くの著作とNHK大河ドラマの時代考証、歴史番組への出演で有名な方である。
 ここで、先生の講演を要約して、執筆させていただいた。なお、NHK大河ドラマの時代考証に関しても貴重なお話があったが、省略させていただいた。

真田三代とは

 真田三代とは真田幸隆、昌幸、信繁を云うが、「生き残りの戦略」というからには、徳川の世になっても大名として真田家を残した信幸(後に信之に改名)の存在を忘れてはならない。
「兄(信幸)は家を残し、弟(信繁)は名を残した」と云われる所以である。
 戦国武将、真田と云えば、真田幸村ということになっているがNHK大河ドラマ「真田丸」では真田左衛門佐信繁という名で出てくる。史実として真田信繁が「幸村」と名乗ったことは無い。「幸村」という名が出てくるのは約50年後に出た「難波戦記」という軍記本からである。確かに真田氏の系図を見ると名前に「幸」という字が通字(つうじ)あるいは通り名になっている。それと本名を出すのがはばかられた時代で「幸村」となったらしい。さらに江戸後期になると「真田三代記」が出てきて、真田三代というと真田昌幸、幸村、それに幸村の子の大助(幸昌)になる。明治になると立川文庫(たつかわぶんこ)から出た時代小説に真田十勇士が登場するようになって、我々が小さい頃には猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道などの忍者、豪傑の人気が高くなる。大助は若殿としてぴったりなのかもしれない。

真田家が乱世をいかに生き残ってきたか

 真田氏は信濃と上野の境界に位置する四阿山(あずまやさん:日本100名山)附近を領していた豪族で、四阿山は修験者すなわち山伏の道場のようなところであった。彼らは各地を自由に行き来できて、互いの情報ネットワークを持っていて、情報を取るだけでなく、流すこともできたのである。これが後の忍びの者と言われるようになった。この情報網と、信濃、越後、上野の国境という地勢を生かして、真田家は生き残ってきた。真田十勇士はまんざら作り話でもない。
 真田家の本拠地は松尾城あたりで現在の上田市真田町になるが、信州と上州の国境で上州街道(国道144号線)を抑えていた。真田氏が大きくなっていったのは、幸隆(幸綱ともいう)の存在が大きかった。一時、武田信虎と戦ったこともあるが、結果として武田信玄の家臣となっている。その後、村上義清が持っていた砥石城を、調略をもって攻め落としたこと、さらに川中島の合戦でも大いに功を上げたことで、武田家臣の中でも上位の地位まで上り詰めている。

真田昌幸の生き方

 昌幸には二人の兄がいて、幸隆の後は長男の信綱が継いでいる。この時期、昌幸は「武藤喜兵衛」と名のっていた。
 信玄が病死し、武田勝頼が家督を継いだのち、武田軍と織田信長・徳川家康連合軍との戦い、世にいう「長篠の戦い」正確には「長篠設楽ヶ原の戦い」で武田が敗れる。この戦で兄二人が討ち死にし、真田家は真田昌幸が継ぐことになる。
 武田勝頼は長篠の戦い以後、北条氏をたよるが、上杉謙信没後の内乱、「御舘の乱」で景虎、景勝の和平に成功する。その後、北条との対立、上杉景勝からの庇護があり韮崎に新府城を築城する。しかし、ここも織田徳川軍に攻められ、昌幸は自分が治めている岩櫃城へ向かえようとするが、勝頼は小山田信繁の居城、甲斐の岩殿城へ逃れることを決意する。しかしこの途上、織田軍に寝返った信繁に行く手を阻まれ、勝頼は討ち死にし武田家は滅亡した。
 真田昌幸が岩櫃城に居を構えている頃の信濃は完全な草刈り場になっていた。北に上杉、南に徳川、東に北条、他の隙間には織田の家臣団が領していた。
昌幸は信長に臣属し、滝川一益の配下になる。ところがその2ヵ月後、本能寺の変が起こり、同じころに滝川一益が北条氏に敗れると、昌幸は北条氏に就くことになる。結局、滝川一益は織田家の後継者選びとなる「清須会議」にも出席できなかった。
この頃の主従関係の不安定さはあきれるばかりだが、それが当たり前であった。昌幸は北条氏とも縁を切り、徳川に就いていた弟の信昌(信尹)の斡旋で徳川方に属することになる。
 その前に昌幸が領有していた沼田城が北条氏に攻められるが、昌幸はこれを撃退している。しかし、その直後、徳川・北条の和睦が成り、徳川北条連合対上杉の対立がおこる。
 ここで、昌幸は徳川家康に、上杉を攻撃する拠点として上田に城を築くことを願い出、徳川のお金と兵力を使い、上田城の構築を行っている。上田城はこの後、難攻不落の城となっている。この後のことを考えると、極めて政略的な城づくりと云える。徳川の金と労力で堅固な城を築き、後にこの城を使い徳川と二度の戦に勝利することになるのだから。
 翌々年、すでに北条と結んで上州を北条領とした家康は昌幸に沼田と岩櫃を北条に渡せと申しわたす。これに対し昌幸は、沼田と岩櫃はもともと真田のもので、北条に渡すわけにはいかないと断っている。真田領は上杉と北条の間にあって、どちらも咽から手が出るほど欲しい要所である。北条と手を結んだ徳川を離れ、昌幸は上杉景勝と同盟し、次男の信繁を人質として送っている。
 それに怒った家康は昌幸の居城、上田城に7千の兵を送っている。真田方は兵2千、攻者が籠城している兵の3倍の兵を送れば勝てるという説があるが、この上田合戦ではそれを超えている兵でも落とせなかった。これが第一次上田合戦と称される。

真田信繁、信幸の世代

 真田信繁は上杉の人質に出されたときは、すでに19歳になっていた。ここで、上杉軍法を学ぶことになるが、父からは武田軍法、この後に豊臣軍法を学んでいる。これが第二次上田合戦の勝利につながっている。
 豊臣秀吉が天下をとると、真田昌幸と徳川家康の対立は秀吉の斡旋で、和解する。信繁も豊臣への人質になってはいるが、秀吉からは大いに可愛がられ、直々の馬廻衆となり、従五位下左衛門佐に任じられ、豊臣の性まで下賜されている。昌幸も豊臣家配下の大名として取り立てられる。
一方、信幸は徳川家に仕え、家康にその才を認められ、従五位下伊豆守に叙任されている。
 この頃の女性の活躍は目を見張るものがある。後に真田家が東軍と西軍に分かれ、真田家断絶を免れたのも女性のおかげである。長男の信幸は徳川四天王の一人、本田平八郎忠勝の娘で、家康の養女として嫁いだ小松姫を正室としている。一方、信繁は石田三成の親友、大谷吉継の娘竹林院を正室としている。正室の他にも多くの側室がいて、子孫を残している。

関ヶ原の戦い

 家康は豊臣秀頼の命で、上洛に応じなかった上杉景勝討伐のため、軍資金2万両と兵糧2万石を受け取り、江戸に帰国。徳川方の兵を集めて、会津に向かう。下野小山に来たころ、石田三成挙兵の報を聞き、そこで上杉討伐軍に加わった諸大名を集め、協議する。1600年7月15日の「小山評定」である。
上杉討伐から反転し、西に向かうことになる。豊臣恩顧の大名たちも福島正則をはじめ、三成には従わないものが数多くいて、ほとんどが、石田三成との戦いに向かった。
 昌幸、信幸、信繁は徳川との戦を決意した石田三成からの書状を下野の国、犬伏(栃木県佐野市)で受け取っている。昌幸は三成とは姻戚関係もあり、第一次上田合戦の因縁もあって、西軍に、信繁は三成の親友である大谷吉継の娘を正室としているため、やはり西軍に、一方信幸は本田忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているため東軍に就くことになった。もちろん、真田家の存続を念頭に置いていたのは間違いない。
小山評定の後、昌幸と信繁は上田城に戻るため、途中、信幸の居城沼田城に寄って、孫の顔を見たいと訪ねているが、小松姫から、昌幸の思惑を見透かされ、丁重に断られている。「さすが、本田忠勝の娘」と笑って通り過ぎたという話もある。
 昌幸と信繁は上田城で、徳川秀忠率いる東軍本体3万8千の兵を2千の兵力で徹底した籠城戦を戦っている。これを第二次上田合戦という。
この合戦の中では信幸は徳川方として参加している。このとき、砥石城を守っていた信繁は、自ら兵を引き揚げ信幸の功としている。
結果として、秀忠は1600年9月15日の関ヶ原の合戦に遅参している。
 西軍が敗れたのがわかった後も、昌幸、信繁は数回の戦いをしかけてはいるが、結局、降伏、開城している。
本来なら敗軍の将として死罪になるところだが、信之と本田忠勝の懇願により、紀伊、九度山(くどやま)に流罪となっている。昌幸は九度山で死亡する。

大坂冬の陣

 時は流れ、1614年に大坂冬の陣が勃発する。豊臣方は恩顧の大名に期待できず、多くの浪人を集める策に出る。信繁は上田にいる昌幸の旧臣たちを集め大坂城に入った。
 大坂にいた淀君や大野治長らの当初からの籠城案に反対、浪人たちは打って出ることを主張したが受け入れられず、信繁は、それならばただ単に籠城するだけでなく、敵を呼び込んで反撃する策を唱え、大坂城で最弱部とされた三の丸南側に出城を築くこととなった。これが世に云う「真田丸」である。
徳川方は20万の大軍がつめかけ、豊臣方は10万の浪人が集まった。その中には、後藤又兵衛、長曾我部盛親、木村重成などの名立たる武将もいた。
 「真田丸」には5千の兵が詰め、徳川方を銃で攻撃、疲弊させていった。徳川方は、和平に持ち込もうと、2キロも飛ぶ大筒(大砲)を使い、本丸を攻撃した。それがたまたま、本丸に命中し、淀殿の側近の女が死に、恐れおののいた淀殿の方から講和を申し入れる結果となり、徳川優位の和平がなされた。
その条件は、真田丸を破壊すること、外堀の一部を埋めることであったが、勢いに勝った徳川方はすべての堀を埋めてしまう。

大坂夏の陣

 半年後、徳川勢は15万の兵を集め、大坂城を攻撃。堀をすべて埋められた大坂城は籠城戦にはすでに役立たなくなり、大坂方の浪人も多くが立ち去り7万の兵で打って出ることとなった。道明寺・誉田合戦をはじめ、各地で合戦となったが、兵力に勝る徳川方が優勢となる。
天王寺・岡山合戦で大坂方は迎撃をこころみる。その中で、敵は家康のみとして本陣に突撃した真田信繁の猛攻に徳川本陣は大混乱に陥るが、死を覚悟の戦に疲れ果てた信繁も遂には、討ち死にした。
 その後、豊臣秀頼の正室千姫による秀頼の助命嘆願に対しても、家康は許さず、豊臣家は滅びることとなった。

真田家のその後

 真田信繁の一人息子、大助(幸昌)は大坂城にもどるが、豊臣秀頼の死とともに殉死している。
真田家を引き継いで生き残ったのは、信之である。関ヶ原後、昌幸、信繁の助命嘆願の際に、真田家の通字「幸」を捨て、信之と改めている。
信之は大坂の陣には病気のため参戦していない。二人の息子が出陣している。
 信之は夏の陣後、上田藩主となるが、その後、松代に加増移封され13万石の松代藩主となる。後に、沼田真田藩3万石が独立して、松代藩は10万石になり、子孫は明治になって伯爵にもなっている。

執筆 鶴

真田家関連地図上田城全景
真田丸イメージ大坂夏の陣屏風